2017年12月31日日曜日

最近読んだ本からー 「祈る―パウロとカルヴァンとともに」 ルドルフ・ボーレン著 (川中子 義勝[訳])

―最近読んだ本からー
「祈る―パウロとカルヴァンとともに」
ルドルフ・ボーレン著
(川中子 義勝[訳])
20171130日 初版発行
定価(本体2700+税)
発行所 教文館
 今年は、宗教改革500年の記念すべき年である。マルティン・ルターの95箇条の提題に始まった宗教改革のもう一人の忘れてはならない人物は、ジャン・カルヴァンである。
 このほど、説教塾ともつながりがあり、加藤常昭先生の説教学の先生でもあるルドルフ・ボーレン著の「祈る」という本書が川中子義勝先生の翻訳で出た。名訳であると思う。祈りに関する著書は、たとえばルターの大教理問答書の主の祈りに関するものなど多数あるが、本書は、「パウロとカルヴァンとともに」と副題がついているように、特にパウロ書簡のテモテへの手紙第一、第二を拠り所にしながら、文字通り「祈る」作業を、ボーレン先生を含めて、パウロ、カルヴァンの三人で進める体裁をとっている。
 最初読んでいくと、パウロの手紙を、カルヴァンが行った注解の言葉をずっと紹介しているのかと思って読んでいったが、カルヴァンの注解や同労者などに出した書簡の言葉は、いずれも終わりに記されていて、その間の橋渡しの言葉は、詩人でもあるボーレン先生のパウロのみ言葉をめぐる思索の言葉であり、「祈る」ことそのものであることが分かった。神学とは祈りである。

 ボーレン先生は、改革派の神学者で、カルヴァンの流れから、近くでは、バルトやトゥルナイゼンなどと親しい関係にあられた。親日家でもあり、日本の「源氏物語」などに関する著述もなさっておられるようである。 今回の著書を通して、ボーレン先生の神髄に触れた思いである。私どもは、ルーテル教会員であり、マルティン・ルターの著書を通して、信仰による義から始まって、義人にして同時に罪人、生涯は悔い改めの連続など、それは、プロテスタント一般に、あるいはカトリック教会においても、承認されているといっていい信仰生活の宝であり、宗教改革の出発点といっていいルターの教理であるがそれを前提とした上で、カルヴァンはそれを更に教会生活の上に受肉させ、信仰の聖化、浄化と言おうか、祈りにおいて教会制度の確立を目指したのではないか。

2017年12月18日月曜日

「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書1:19-28)

20171217日(待降節第3主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第611-4節、テサロニケの信徒への手紙一第516-24節、ヨハネによる福音書第119-28節、讃美唱301302(ルカ福音書第147-55、ルカ福音書第168-79節)
     説教「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書119-28
 今日で三度目のアドベント、待降節の主の日を迎えています。今日は、先週のマルコ福音書による出だしの、洗礼者ヨハネの記事に対して、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの記事、第1章19節から28節までが、与えられています。共観察福音書の記事と比べて、ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、違った見方から、記されています。
 マルコ福音書などでは、ヨハネは、主イエスの先駆者として現れ、人々に、主、メシアがお出でになる前に、悔い改めの洗礼を説教する者として、言わば、旧約の預言者の最後の者として、また、旧約のどの預言者よりも大いなる者として登場しているのですが、ヨハネ福音書では、あくまで主イエスの到来を告げる者、キリストの証人として、位置付けられているのです。
 ヨハネ福音書では、主イエスは、光として、この世にお出でになりますが、ヨハネはあくまでも、その光について証しする者に過ぎないのであります。
 そのヨハネについて、ヨハネ福音書では、その序章に続いて、どのような者として、現れたのかを、主イエスの登場の前に、すぐ記されているのであります。
 すなわち、ヨハネの証しはこれであると、ロゴス賛歌のあとに、続けられ、それは、ユダヤ人たちが、エルサレムから、祭司やレビ人たちを遣わした時のことであると始まります。
 あなたは、だれなのかと彼らは、ヨハネに向かって問いかけるのであります。人々は、メシアを待望していました。ユダヤの当局にとっては、期待と共にそれよりも恐れの方が大きかったのであります。ユダヤ全土に知れ渡っていた洗礼者ヨハネは何者なのかを知ろうとしていたのであります。
 それに対して、ヨハネは、告白し、真理を隠すことはなく、自分は、キリストではないと、明言して語るのであります。では、エリヤなのかと彼らが聞くと自分はそれではないと言い、では、かの預言者なのかと問い詰められると、「否」と次第に短い問答となります。
 自分はそのような、メシアでもなければ、メシアの時に現れるメシアに近い人物でもないと言い切ります。
 それでは、何だというのか、送り出したユダヤの者たちに答えれるようにしてくれと強いられたとき、ヨハネは、イザヤの預言に従って、自分は荒れ野で呼ばわる声、主の道をあなた方は真っ直ぐにせよという声に過ぎないと断言するのであります。
キリストがお出でになることを告げる声に過ぎないというのです。キリストの証し人に過ぎないと。これは、しかし、素晴らしいことであります。この世に来た光を証しする証人だと、自分のことを、はっきりと告白している。
 これは、洗礼者ヨハネに限らず、私どもも言うことのできる、最高の言葉であります。そして、アドベントの今、一番大事なことは、キリストこそ救い主であると呼ばわる声に、私どももなることができるということであります。 
 ヨハネを問い詰めたユダヤ人たちは、ファリサイ派であったと記されています。これは、ヨハネ福音書が書かれたころ、教会を迫害していたのはファリサイ派のユダヤ人たちであったことが、窺われる記事であります。
 ヨハネ福音書はこのようなファリサイ派からの迫害下にあって、救い主キリストへの信仰を捨てないように励ますために書かれたものだと言われます。
 このアドベントの時期にここが読まれますのは、私たちも、来たるべき主イエスへの信仰を、確認し、力強く証しすることができるためであります。
 更に、ではなぜ、洗礼を授けているのかと問われると、自分の後に来る方は、その靴紐を解くことにさえ自分は価しないが、その方はあなた方は知らないが、あなた方の中に既に立っておられるという。
 ユダヤの当局の者たちは、キリストを理解できなったのであります。しかし、あなた方の只中に既に立っておられると、洗礼者ヨハネは、その到来を告知するのであります。自分は、キリストでもなければ、それに近い預言者やメシア的存在でもない。ただ、キリストを証しする声として立っていると断言するのであります。
 私どもも、アドベントを迎える時、そのようにキリストの到来を証しするものとされたいと思います。
 今日の福音、ペリコペーの最後の節には、これは、ヨルダン川の向こう側のベタニアでの事であったと記されています。この救いの出来事が、確かな時と場所において起こったことを聖書は書き記すことを忘れません。
 確かにこの地上で、特定の場所と時において、この救いの出来事は、起こったのであります。
 このヨハネ福音書の初めの出来事として、洗礼者ヨハネの行ったこと、語った言葉が、私どもに救いの到来を証ししているのであります。そして、一年の初めに、私どももその声に耳を澄まし、主のお出でになる道を真っ直ぐにし、主のお進みになる道を整えると共に、自分の栄誉や評判を求めるのではなく、主の栄光をのみ求め、キリストを証しする喜びに行きたいものであります。
 そして、クリスマスを、1週間後に迎えようとしている今、このキリストの身を伝える声としての伝道にいそしむ1週間としたい者であります。アーメン。











                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

2017年12月16日土曜日

「悔い改めの時」(マルコ福音書第1章1節~8節)

20171210日(待降節第2主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第401-7節、ペトロの手紙二第38-14節、マルコによる福音書第11-8節、讃美唱85/1(詩編第852-8節)

説教「悔い改めの時」(マルコ福音書第1章1節~8

  アドベントの第2主日を迎えました。今年は先週の123日から、アドベントを迎えていますが、3年サイクルの教会暦のB年として、マルコ福音書を主たる福音書として、そこからみ言葉を与えられていきます。
 マルコ福音書は、4つの福音書の中で、最も古い福音書であり、また、最も簡潔なものであります。初めて福音書としての形が示されたものとしての精彩を放っているのではないでしょうか。
 さて、アドベントとは、「到来」と言う意味であり、2000年前にお生まれになった、第1のアドベントである主イエスのお誕生を、再びこのクリスマス前の時期として、待ち備えるという意味と共に、終わりの時に再び来たもう主イエスの再臨という第2のアドベントに備えて、目を覚まして生きようという時でもあります。そして、教会暦のこの一年の初めに用いられます聖壇やストールの色は紫でありますが、これは、まことの王、主イエスを表すとともに、その主が十字架に付けられたときに着せられた紫の衣の色でもあり、悔い改めの時でもあるのです。
 今日は、マルコ福音書の最初の第1章1節から8節が、この日の福音として与えられています。そこから、私たちは福音を聴きたいと思います。
 マルコ福音書は、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」との表題をもって書き始められています。これは、「イエス・キリストという福音の源、神の子の、」とも訳せる言葉です。当時、ローマ帝国下においては、後にローマの平和を確立したとされる、あの主イエス誕生のルカ物語において出て来る、人口調査の勅令を出す皇帝アウグスツスが、誕生したときに、神の子の誕生として、「良き知らせ」すなわち、福音が知らされたと伝えられています。
 それに対して、マルコは、まことの「良き知らせ」の起こりは、主イエス・キリストにあると言うかのようであります。そして、その良き知らせは、洗礼者ヨハネの出現と共に始まったと言うのであります。
 それは、預言者イザヤの書にこう書かれてあると記し始めるのですが、この預言は、マラキ書と出エジプトにある預言と、イザヤ書の預言が組み合わさったものであります。出エジプトの時に主なる神が、み使いを先に送って、イスラエルの民を約束の地に導きました。主なる神が、民を呼び出し、民を立ち帰らせて約束の地に戻されたのが出エジプトの出来事でした。
 そして、預言者イザヤの時代には、イザヤ書第403節にあるように、バビロン捕囚の憂き目から、主なる神が、再び第2の出エジプトとして、イスラエルの民を、荒れ野で呼ばわる声に導かれ、主に再び立ち帰るように導かれ、荒れ野にまっすぐな道を用意させて、イスラエルの地に彼らを戻らせたのであります。そして、そのいずれの出エジプトにおいても、主なる神は、荒れ野において霊を送って、民をご自分に立ち帰るようにして約束の地に戻されたのであります。
 そして、それは、洗礼者ヨハネが終わりの時に現れるのを預言しているとされ、メシアの来られる前に、先駆者エリヤが再来すると信じられていたのであります。そして、そのことが、ここに成就したと今日の福音において語られるのであります。
 このヨハネは、荒れ野で呼ばわる声であります。そして、彼は、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教するものとして現れ、イザヤの預言の通り、成ったのであります。  ヨハネは、救い主すなわち、キリストを証しする先駆者であります。罪の赦しそのものを与えることはできない。そのための備えを、全ユダヤに、全エルサレムになさせるために、荒れ野の境目のヨルダン川で洗礼を授け始めたのであります。
 人々はぞくぞくと彼のもとに押し寄せ、自らの罪を悔いて、ヨハネから洗礼を授けられていたのであります。
 しかし、彼は、自分の後に、自分とはとても比較もできない強い方がお出でになり、その方こそ、聖霊で洗礼をお授けになると公言するのであります。私どもの罪の赦しを与える事のできる方は、神の子である主イエスの他には誰もいないのであります。そのことを、ヨハネは、水で洗礼を授けながら、告白するのであります。自分と主イエスが連続するものとしてではなく、まったく新しい救いが、主イエスによって、もたらされることを告白し、感謝し、ほめたたえて、私どもに告げ知らせるのであります。
 そのお方をお迎えするために、洗礼者ヨハネは、荒れ野で、らくだの毛衣と腰に革の帯をし、いなごとの蜜を食しながら、人々に、主に向かって立ち帰り、正気になって心を向け、また、そこから行いも生活もただされるようにと悔い改めを説くのであります。 そして、この悔い改めの時、そして喜びの時、それがアドベントの時であります。
 この新しい一年、前途に何が待っているのでありましょうか。私たちを全く新しいものとして、罪赦され、歩むことを可能にしてくださるキリストを待ち望むとき、それが、今のこの時であり、クリスマスを迎えるにあたって、最も必要なことは、神のみ旨に、全身全霊で立ち帰ることであります。
 そして、今年も、心さわやかに、憂いを振り払って、主イエスのご降誕をご一緒に迎えたいものであります。
 このお方こそが、神の子にして、唯一のまことの神であり、また、まことの人であるからであります。このお方こそが、聖書において待ちに待たれたメシア、キリストであり、このお方の他には、この地上では救いの手立てはないと信じるからであります。
 人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。










             

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

2017年12月14日木曜日

「王道―21世紀中国の教会と市民社会のための神学―」

―最近読んだ本からー
「王道―21世紀中国の教会と市民社会のための神学―」
王艾明 著
(松谷曄介[編訳])
20121126日 第1版第1冊発行
定価(本体2300+税)
王艾明牧師は、現代の中国の代表的な神学者の一人とのことである。1963年、江蘇省生まれとのことであり、一度その講演をお聞きし、そのさわやかな語り口に、好印象を憶えたことを、つい昨日の事のように思い出す。この本「王道」の編訳者でもある松谷曄介牧師も、説教塾での講演に、通訳として同行されていたが、その流ちょうな通訳にも感心させられたことも記憶に新しい。そして、この本のもともと優れていることもあろうが、訳した松谷牧師(1980年生まれ)の翻訳や知見の優れていることも、この書を読みやすくしている要因ではないかと思う。現代の中国のキリスト者は、7000万人とも、ひいては9000万とも推定されるらしい。かつては、中国共産党の政府のもとで、キリスト教は、マルクス主義に反するものとして、否定されていたとのことだが、現在では、改革も進み、経済も自由化の中にあって、中国指導層の中にも、洗礼を受け、教会につながる人たちも出てきているという。それにしても、なお共産党の一党支配の政権下にあり、中国での教会の前途には大きな課題が山積していることは容易に想像できる。「王道」とは、孫文が用いた方向を指し、「覇道」に対して、道徳を重んじて、武力に走らない行き方を指すらしい。王艾明先生は、中国の教会が伸びるためには、中国のこれまでの精神的礎柱であった儒教の、2000年以上に及ぶ教えから出来上がっている文化を十分に理解しながらも、キリスト教の初代教父たち、原始教会の神学や宗教改革者たちの神学に絶えず立ち返って、自らを検証していくことが不可欠の作業であると主張されている。今の中国の教会には、3自教会と家の教会のような二つの流れがあるが、いずれにしろ、「教会性」「教会論」が不足しているというのである。今年は宗教改革500年記念の年だが、王先生は、マルティン・ルターの健全な教理の回復と、その上に立ってのジャン・カルヴァンの教会制度・教会秩序の確立をもたらした神学の重要性を説いておられる。教会が各国で異なる歴史を持ち、神学もそれぞれのコンテキストに応じた展開が必要である。宗教改革500年記念の年、ルターとカルヴァンの両者が日本のルーテル教会でも問い直されるべきだろう。






2017年11月15日水曜日

「もっとも重要な掟」(マタイ福音書第22章34節~40節)

20171112日(聖霊降臨後第23主日―典礼色―緑―)、申命記第2616-19節、テサロニケの信徒への手紙 一 第11-10節、マタイによる福音書第2234-40節、讃美唱1(詩編第11-6節)

説教「もっとも重要な掟」(マタイ福音書第2234節~40節)

 私どもは、教会暦A年の、マタイによる福音書を主たる福音として、昨年のアドベントの時から始まった一年を歩んできましたが、その一年も、間もなく終わろうとしています。
 そして、123日から始まる新しい暦の一年は、3年サイクルの聖書日課のB年として、マルコによる福音書と共に再び歩みだすわけであります。
 マルコ福音書が一番古い福音書と考えられています。そして、マタイ福音書は、かなり後になってまとめられ、教会のために書かれた、よる教会にふさわしい福音書だと言われます。
 今日の聖書個所、ペリコペーも、そのことを十分に味わわせてくれる内容となっています。
 ここでは、サドカイ派の者たちが、主イエスとの論争に、何も言えなくなって、退散し、それに代わって、やはり、ファリサイ派たちが再び、イエスを試みながら、いわば、罠に落とそうとして、一つどころに集まったのであります。
 そして、彼らの代表として一人の律法の専門家が、主イエスに尋ねるのであります。「どんな掟が、律法の中で大きいのですか、先生」と文字通りには訳せます問いかけをします。マルコでは、一番の掟は何ですかとあるのに対して、マタイは、より正確に律法において、どの掟がもっとも重要なのですかと問うのです。
 主は、このように断言なさっておられました。「主なるあなたの御神を、あなたのその心の全体において、あなたのその魂の全体において、あなたのその思考力の全体においてあなたは愛するであろう。これが大きな、そして、第1の掟である。第2も、これと同様である。あなたは、あなた自身のように、あなたの隣人を愛するであろう。この二つの掟において、かの全律法が架かっている、そしてまた預言者たちも。」
 この簡潔な、み言葉において、マタイは、主イエスの教えを要約しているのであります。
 この一年をマタイと共に歩んだ終わりの時において、マタイは、主イエスの教えともいえる、旧約聖書の完成と成就を、二つの律法のなかの命令に、要約して見せているのであります。
 主なる神を愛することとはどういうふうにして、可能になるのでありましょうか。目に見えない神を、私たちは、どういうふうにして、私たちの存在のすべてを賭けて、愛することができるのでありましょうか。
 この律法の専門家は、主イエスを、陥れるために、その質問をしたのでありますが、その答えに対して、どのような反応を取ったかは記されていません。
 マルコでは、一人の律法学者が、ただ、どの掟が1番ですかと聞いたのに対して、主イエスが、第1は、第2はと答え、それに感心して答えた律法学者を、あなたは、神の国から遠くないと賞賛なさっておられるのですが、マタイのイエスは、それを記してはいません。
 あくまでも、主イエスに敵対し、主イエスを十字架へと追いやる、ユダヤ教の指導者たちとして、見ています。
 しかし、彼らの立場と、主イエスの教えがまったく違うものであることを、明瞭に示していると言えましょう。
 主イエスは、律法をなおざりにする者として、お出でになった方ではなくて、それを完成するために来られたことを、はっきりと、今日のみ言葉の中で宣言しておられるのであります。
 全律法と預言者たちは、この二つの命令の聖句において、まっとうされ、それに架けられている。この二つの教えが守られたならば、すべての旧約聖書の命令も、守られたことになる、と言われるのであります。
 それは、十戒の要約とも考えることができます。第1の板の第2の板に記されている命令の要約であります。
 そして、あなたの主なる神を誠実に、忠誠をもって、あなたの全存在によって、愛することと、あなたの隣人を自分自身のように、誠実に、真実の愛をもって扱うこととは、一つであると、主イエスは言われるのであります。
 それはなぜでありましょうか。一つには、私どもは、神に似せられて造られた、兄弟姉妹であります。その兄弟姉妹を、敵をも含めて、自分自身のように愛することは、神を愛することであるからであります。
 しかし、私どもは、皆不完全な者でありますゆえに、この二つにして、一つの一体の戒めを、完全に行うことはできないのであります。
 そこで、そのほかの多くの戒め、み言葉にも、耳を傾けていく必要があるのであります。そして、主イエスが、御受難を前にエルサレムの神殿の境内の今日のみ言葉を語っておられますことを、想起しなければならないのであります。

 すなわち、今日の二つの戒めが、果たされるために、主イエスは、十字架におかかりにならなければならなかったのであります。 主イエスの十字架の苦しみと死、そして、その死からのよみがえり、ご復活を通して、今日のみ言葉は、その成就を見出すことができるのであります。主イエスの十字架の死を通して初めて私どもは、真に私どもの隣人を自分のように愛しうるのであります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2017年11月7日火曜日

「枯れた骨は生き返るか」(エゼキエル書第37章1節~14節)

2017115日(全聖徒主日聖餐礼拝―典礼色―白―)、エゼキエル書第371-14節、ローマの信徒への手紙第61-11節、ヨハネによる福音書第151-17節、讃美唱116(詩編第1161-19節)

説教「枯れた骨は生き返るか」(エゼキエル書第37章1節~14節)

 今日、私たちは、全聖徒主日を記念して集まっています。今年は宗教改革500年記念の年であります。マルティン・ルターが、時のローマ・カトリック教会の行っていた贖宥券の販売に対して反対して立ち上がったのは、15171031日であり、翌日の111日の全聖徒の日の礼拝に向けて、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に95箇条の提題を張り出したと伝えられているのであります。
 それは、主イエス・キリストが、お出でになられ、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたとき、キリスト者の全生涯が悔い改めであることを示されたのであるという第1条から始まっています。そして、この提題が、全聖徒の日の礼拝の前日に張り出されたということには、深い意味があったのではないかと思うのです。
 今日は先に召された聖徒たちのことを思い起こす日でありますと共に、私たちの残された生涯について、思いをひそめる時でもあります。
 聖徒とは、いわゆる聖人君子というような意味ではなくて、自分が罪深い者であることを知らされて、洗礼を受け、キリスト者となったすべての人のことであります。
 今日は、第1朗読に与えられましたエゼキエル書第37章1節から14節までを通して、そこに福音を見出していきたいと思います。
 この記事、エゼキエルが見た幻がどのような時のことであり、場面でのことであったのかは、定かに記されてはいません。
 しかし、エルサレムが、バビロン帝国によって滅ぼされた紀元前587年以降のことであったのは確かでありましょう。神の民であったイスラエルの民が、神に対して罪を犯したゆえに、イスラエルの国は滅ぼされた、そして、バビロンへとエルサレムの主だった者たちは捕囚として連れて行かれた出来事が起こったのであります。それは、彼らの祖先が、エジプトに逃れたときに、そこで奴隷とされたときに、モーセによって出エジプトの出来事が起こったのに匹敵する、彼らにとっては今でも忘れることのできない挫折の出来事でありました。
 そこで、闇と絶望以外には、何も見出せない現実の中にあって、エゼキエル
に、枯れた骨の幻と主なる神からの預言の言葉が与えられるのであります。
 主の手が、エゼキエルの上に現れ、主の霊において、彼は、谷間の平地の真ん中に連れて行かれます。そして、そこは骨でいっぱいであった、しかもその骨は甚だしく枯れていたというのであります。
 どこかの戦場であったのでしょうか。丁重に葬られもせず、放置されて、その骨は、干からびており、無数であったというのであります。死は、神に背いた罪の結果であると考えられていました。神の呪いを受けたイスラエルの民の姿であったのでしょうか。
 そこに、主の霊において連れて行かれたエゼキエルは、主によって、あなたはこれらの骨が生き返ると思うかと尋ねられます。
 彼は、それはただあなたのみがご存じですと答えるしかありません。主は、これらの骨に生き返るように、預言して、霊に言いなさいと命じられました。そして、主の言われる通りに、預言しますと、これらの骨はカタカタと音を鳴らして、近づき始め、骨には筋肉がつき、その上のすべてに皮膚がかぶさったのであります。しかし、その中には霊はまだありませんでした。
 主は、彼に、四方から霊を、それらに向かって吹きつけるように預言して言いなさいと命じます。そして、その通りにすると、今度はその骨どもはしっかりと立ち上がり、その足で歩き始めます。そのとき、主の言葉がありました。
 これらは、イスラエルの全家である。彼らは、自分の希望は消え失せた、自分たちは滅びると言っている。
 しかし、私が、彼らを、彼らの墓から引き上げ、彼らの土地に連れ帰るとエゼキエルに預言して、告げられるのであります。そして、彼らは、私こそがまことに神であり、このことを語り、なしたことを知るようになると言われるのであります。

 死とは罪の結果であると聖書は告げています。しかし、その死をも、神は支配なさっておられます。土に息を吹き込まれ、霊を注がれて生きる者となった私どもは、枯れた骨となっても、命の主である神が、その霊を吹き込まれる時、死をも打ち破って、肉をまとい、霊が与えられて、新たな人間へと回復させることがおできになるのであります。それが、復活であります。 死の世界、地下の陰府の世界に降りた者は、生きる望みはないと、旧約の世界では考えられていました。しかし、エゼキエルは、そのような罪に陥って死んだ人類をも、主なる神は、命へと再び回復することがおできになることを、まことの神である主によって示され、その生かす霊に向かって、主が命じられた通り、預言しているのであります。主が語られたことは、その通りになるのであります。そのことを、私どもも信じて、主イエスが定められている善い働きにいそしむ者とされたいと思います。 人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。             

2017年10月22日日曜日

―最近読んだ本からー 「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス著(神代真砂実訳)

―最近読んだ本からー
「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス著(神代真砂実訳)
発行  2013725日 6版発行    
           発行所 教文館
           定価  8100円(本体価格7500円)
  ようやく、この書を読み終えることができた。このような本に出会ったことに驚いている。前回にも書いたが、このような神学入門書はこれまでなかったのではないか。著者がその序文にも書いている通り、この書は初めて神学を学び、聖書を学ぶ人にも、かなり信仰歴を持ち、教会生活を送り、あるいは、牧師のように、宣教と牧会に携わる人にとっても、大きな支えとなる神学書といえよう。
 キリスト教の2000年にわたる神学の歴史にとどまらず、聖書と教会にかかわるあらゆる問題、哲学や文学や世界観の壮大なドラマが、この書物一冊の中に凝縮されて、まとめられている。
 このような書物がどうして、可能になったのだろうか。それは、著者マクグラスが、キリスト教を発見する前には、マルクス主義に傾倒していた時代があったことや、神学者になる前には、生物学で博士号を取っている、その幅の広さにもよっているのではないか。
 今まで、分からないながらも、ルターや、色々な思想家や文学者や神学者の本を、アト・ランダムにかじったりしてきたが、その背景や位置づけが分からなくて、理解できない事が多かったのである。
 しかし、この神学入門は、現代にいたる主だったあらゆる神学者や哲学者、さらには文学者や科学者、思想家がどこに位置付けられるのかを、鳥瞰的にとらえることを可能にしてくれる。
 複雑な神学的な議論の争点を、分かりやすく紹介してくれる。人間にまことの救いはあるのだろうか。イエス・キリストをどのように、教会は、そして人々は理解してきたのか。宗教改革者マルティン・ルターの、膨大な神学者たちにおける位置づけについても、大きな整理をしていくうえでの手掛かりが与えられたように思う。この本は、著者も言っているように、辞典のように必要に応じて、これからも取り出しては、大事な論争のポイントをつかんでいくうえでも有益であろう。これからの教会の行方を見通していくためにも、大切な書となるであろう。著者は、聖公会の神学者ではあるが、宗教改革者、特にルターの神学に、深い造詣を持っていることも、親しみを抱かせてくれる。










2017年10月16日月曜日

「逆転させる父なる神」(マタイ福音書第20章1節~16節)

20171015日(聖霊降臨後第19主日―典礼色―緑―)、イザヤ書第556-9節、フィリピの信徒への手紙第112-30節、マタイによる福音書第201-16節、讃美唱27(詩編第271-9節)

説教「逆転させる父なる神」(マタイ福音書第201節~16節)

 今日の第1朗読のイザヤ書は、神を見い出しうる間に探し求めよとあり、神の思いは、人の思いを超えて、広く深いとあって、今日の福音につながるみ言葉であります。また、第2朗読も、フィリピ書で、パウロは、自分が牢獄で鎖につながっていることも、キリストを伝えるために役立っているので喜んでいるとのみ言葉でありました。
 さて、今日の福音は、マタイ福音書第19章の天の国はどのような者のものであるかとの問いに続く、主イエスのなさった譬え話であります。すべてを捨てて従ったペトロたちに、あなた方、私の名のために家や父母などを捨てた者はその百倍の酬いを受け、永遠の命を受け継ぐが、多くの先の者が後になり、後にいる多くの者が先になると語られたのに続くみ言葉となっています。
 なぜなら、天の国は、次の一家の主人である人の事情に似ているからであると、つなげられているのであります。そして、この譬えの終わりの言葉も、「このように、最後の者たちが、最初の者たちとなるであろうし、最初の者たちが最後の者たちとなろいう」となっていて、第19章の終わりと同じになっていて、今日の譬えを取り囲んでいる。
 み国においては、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる、そのような逆転を、神はなさることができるのだから、謙遜な思いで弟子であるあなた方は、私に従ってくるようにとの主イエスの、私どもへの警告の譬えであると言えましょう。
 さて、この一家の主人である人は、夜が明けると市場にやって来て、何もしないでいる者たちと、1デナリオンで、自分のぶどう園で働くように合意し、送り出します。さらに、9時にも来て、正当な者を払うからといって送り出し、12時にも、また、3時にも同じようにして、送り出すのです。
 さらにまた、午後の5時にも来て、あなた方はなぜ、働かずに立っているのかと聞きます。だれも雇ってくれないからですというと、あなた方も行きなさいと、同じようにふるまいます。
 そして、日が暮れたとき、管理人に命じて、終わりの者から始めて、最初の者たちまで支払わせます。終わりの者たちは1デナリオンを受け取って帰っていきます。最後の者たちになったとき、彼らは自分たちは、もっと多くもらえるだろうと思いました。ところが彼らも、1デナリオンしか受け取りませんでした。彼らは、一日中重荷と灼熱に耐えた自分たちを、最後の1時間しか果たらなかった者たちと同じにするとはといって不平を言っていました。
 ぶどう園の主人は、その一人に向かって言います。私のものを私の好きなようにしてはいけないのか。それとも、私が善い者なので、あなたの目は邪悪になっているのかと。
 その言葉を、共同訳聖書では、あなたは私が気前がいいので妬んでいるのかと訳しています。
 この譬えは、昔からいろいろに解釈されてきました。最初の者たちは、ユダヤ人たちで、終わりの者たちは異邦人たち、あるいは、ファリサイ派のような人たいと、罪人、徴税人、遊女のような人たち、あるいは、宗教改革時代には、カトリック教会の修道僧のような人たちと、キリストへの信仰のみによって生きる人たちと。
 今の私たちにとっては、教会での信仰歴の長い人や短い人と考えてもいいかもしれません。しかし、いずれにしても、私たちが、後から救われた人、恵みに与った人に対して妬みの心を持つことが、主イエスによって警告され、戒め
られていると言えましょう。主イエスを裏切ったユダも、この人と同じように、「友よ」「同志よ」といって主に語りかけられています。彼もまた、妬みをもって、主イエスを裏切ったと一面では言えましょう。
 後から救いに入れられる人に対して、濁った眼、眼付きの悪い目でみてしまう。私どもの悲しい現実であります。このぶどう園の主人は、「あなたも自分の分を受け取って、ここから出て行くように。」妻子の待つ自分の家へと帰ってゆくようにと励まし、送り出しておられます。
 教会の群れに、だれが先に入れられ、後になって加えられるかは、父なる神のご自由な、み心によることであります。思いもしない仕方で洗礼に与るものであります。人生の終わりの時期に迎え入れられる人もあれば、まことに様々であります。
 私どもは、今はすでに信仰に入れられた者として、まだそうでない身内の者たちや、知人、友人に対して、謙虚な気持ちで、子どものように、心を低くし、目を澄まして、恵みの手段に、一人でも多くの人が与る日が来るようにと努め励みたいと思います。
 そして、信仰歴が長いとか、浅いとかによって、優越感を抱いたり、妬みの目で兄弟を羨むようなことではなくて、同じ恵みに与っている幸いを、「友よ」と肩を抱き合って、喜び歩む群れとされたいものであります。そして、自分の功績やわざを誇るのではなくて、キリストを信じる者とされているその信仰によって立ち続けましょう。キリスト者の生涯これ、悔い改めであると言ったマルティン・ルターの言葉に立ち続けたいものであります。アーメン。
























                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年10月8日日曜日

―現在読んでいる本からー 「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス著(神代真砂実訳)

―現在読んでいる本からー
「キリスト教神学入門」A・E・マクグラス著(神代真砂実訳)
発行  2013725日 6版発行    
           発行所 教文館
           定価  8100円(本体価格7500円)
  この本は前任教会から、飯田教会に転任に際して、親しくしていただいた兄弟から記念に贈っていただいたものでのある。今年は、宗教改革500年記念の年でもあり、マルティン・ルターを学び直す良い年ともなっているが、改めてこのような書に出会っていることに感謝している。
 著者は、Alister E.McGraths(アリスター・E・マクグラス)で、1953年に北アイルランドに生まれている。現在最も有名な神学者のひとりであるが、この人も私より、わずか2歳年上だと思うと感慨ひとしおである。思い起こすと、マルティン・ルターも、その生涯は、63歳にも満たず、今の私の時点では天に召されていたのである。さて、この本は、ルーテル神学校では、教科書としてが使われているとのことで、前半は一年目に、後半は二年目に用いられているという。このような神学を包括的に学びうる本は、私が神学校にいた時代にはなかったと思う。マクグラスは、聖公会の神学者であるが、分子生物学で博士号を取っているというユニークな人で、若くしてマルクス主義に傾倒するがやがてキリスト教を発見し、幅広い福音主義の神学者として、現在活躍している。
 訳者は、神代真砂美(こうじろ・まさみ)氏で、1962年生まれで、ICU大学出身で、現在、東京神学大学で教えておられるようである。訳者あとがきにもあるように、非常にわかりやすい平易な訳で書かれており、マクグラスの意向に沿って、神学の初心者であっても、だれでも手に取って読める優れた訳だと思う。全体で第18章まであって、この最後の章は、「最後の事物」と題されており、いわゆる終末論を扱っている。
 本の前半は、神学の基礎的な知識が身につくように、概観的に神学の諸問題が説かれている。現在、第9章の「神論」の終わり近くまで読み進めているが、キリスト教の2000年以上にわたる神学において現れた主要な問題、議論が、その背景から、現在につながる意義まで丁寧に説明されている。全体で800頁以上にもなる本であるが、どなたでも読み切ることができる、待たれていた好著だと思う。聖書をめぐって、また人間の命と死の謎に向かって、この書は人々を光へと案内してくれるだろう。私はルターのガラテヤ書講義のペリカン編英訳本(26巻・28巻)を座右の書としているが、その位置付けにも役立とう。因みに、邦訳はルター著作集第二集、11巻・12巻ガラテヤ大講解・徳善義和訳。











2017年10月2日月曜日

「あなたの兄弟を得るために」(マタイ福音書第18章15節~20節)

2017101日(聖霊降臨後第17主日―典礼色―緑―)、エゼキエル書第337-9節、ローマの信徒への手紙第1219-1310節、マタイによる福音書第1815-20節、讃美唱119/4(詩編第11925-32節)

説教「あなたの兄弟を得るために」(マタイ福音書第1815節~20節)

「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、あなたは、自分と彼だけの、ところに行って、彼をいさめなさい」と今日の福音は、始まっています。それは、なかなかできることではありません。
自分の名誉や、対面が損なわれているような場合に、冷静にその人と二人になって、相手の罪をとがめるといったことは難しいことであります。
しかし、主はそれをしなさい、そして、もし彼があなたの言うことに耳を傾け、聞き入れたならば、そのあなたの兄弟を得たことになる、という不思議な言葉を語っておられます。
さらに、聞き入れられない場合には、もう一人、二人を連れて行って、いさめなさいと言われ、それでもだめな場合には、教会に言いなさいと言われます。
「教会」というのは、先だっても出てきましたが、エクレシアという言葉です。外から呼び出された者という意味です。そして、それは、キリストの聖なる集会、会衆という意味であります。それは、教会の建物や大きな組織ということではもともとなくて、キリストを信じる聖なる者たちのことであります。
使徒信条で、第3条で「我は聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、・・・を信ず」とあります。ルターはこの第3条を「聖化」と要約しています。天地の創造主なる神を信じ、み子による救いを、私どもは信じますが、今を生きる私たちには、聖霊が与えられていて、その神のみわざ、働きを知らしめ、私たちが、次第次第に聖くされていくというのであります。
そのキリストの体である主の教会に、3番目には申し付ければいいと、主は言われます。その罪を犯した兄弟を獲得するために、あなたはとことん意を尽くさねばならないと言われるのであります。
それでも、彼が聞き入れない場合には、そのときには、あなたはその兄弟を異邦人や徴税人のようにあらしめればよいと言われます。
これは、そのときには、その兄弟との交わりを絶ってもよいというのですが、むしろこれは、主イエスへとゆだねればいい。そして、神に責任をゆだねて、兄弟が帰って来るのを待てばよいというのであります。
そして、これに続けて、今度は、あなた方は、と複数形になって、またまた、不思議な言葉を、主は言われています。まことにあなた方に言っておくが、あなた方が地においてしばるものは、天においてもしばられてあるだろうし、あなた方が地において解くものは、天においても解かれてあるだろうと言われています。あなた方は、兄弟の罪を赦したならば、それは、天においても、神のみもとにおいても、同じであるとまで、主は約束なさっておられるのであります。逆にあなた方が赦さなかった兄弟の罪は、天上でも赦されないままになってしまうと言われております。兄弟の罪をそのままにして、その兄弟が滅びるようなことがあってはならないと主は厳しく、私たちの責任をお問いになっていると言えましょう。
これは、可能なことでありましょうか。しかし、主は、続けて、こう言われています。
もう一度、まことに、アーメン、あなた方に言っておくが、地上で、あなた方のうちの二人が何事であれ、心を合わせて要求するならば、そのことは、天のおられる私の父のもとから、彼らに成るであろうと約束しておられる。
祈りは、必ず神に聞かれると、主イエスは約束なさっておられるのです。私たちは、祈りは必ず聞かれると思って祈っているでしょうか。
この「心を合わせって」という言葉は、シンフォニーという言葉のもとになっている言葉です。交響楽団という場合のシンフォニーです。いろいろな楽器があっていい。それで、一つのハーモニーをかもしだせばいいのです。
主はさらに、なぜなら、三人が私の名へと集められるところ、彼らのその真ん中に私はいるからであると約束されています。
前半と後半のつながりは、分かりにくいのですが、あなたの兄弟があなたに罪を犯したなら、その兄弟と二人で、あるいは、三人ででも、心を合わせて、集められて、祈るならば、その祈りは聞かれる。なぜなら、そこの真ん中に私が立っているからだと、約束しておられるということっができましょう。
まったく同じ性格や、同じ考え方になることはできないでしょう。しかし、主イエスを信じる者の一人の兄弟として、その兄弟が罪に陥っているのを、そのままにしないで、いさめ、共に天の父に祈りを合わせるのであります。
それが、私たちが毎週持っている礼拝の姿でもありましょう。それが罪の赦しを告げる主の体と血につながる聖餐の意味でありましょう。
そのとき、私たちは、その自分に罪を犯した兄弟と共に、「われらに罪を犯す者をわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」と祈らざるを得ないでありましょう。
そして、そのとき、私たちは、主にある聖徒の交わりを信ずという使徒信条の聖徒であることを証ししているのであります。
そして、主イエスが、言われている通り、罪をそのままにしなかったということになるのであります。このような祈りを、二人ででも三人ででもするようにするように、それは必ず聞かれると約束されているのであります。アーメン。