2017年12月17日(待降節第3主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第61章1節-4節、テサロニケの信徒への手紙一第5章16節-24節、ヨハネによる福音書第1章19節-28節、讃美唱301、302(ルカ福音書第1章47-55、ルカ福音書第1章68節-79節)
説教「キリストを証しする者」(ヨハネ福音書1:19-28)
今日で三度目のアドベント、待降節の主の日を迎えています。今日は、先週のマルコ福音書による出だしの、洗礼者ヨハネの記事に対して、ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネの記事、第1章19節から28節までが、与えられています。共観察福音書の記事と比べて、ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、違った見方から、記されています。
マルコ福音書などでは、ヨハネは、主イエスの先駆者として現れ、人々に、主、メシアがお出でになる前に、悔い改めの洗礼を説教する者として、言わば、旧約の預言者の最後の者として、また、旧約のどの預言者よりも大いなる者として登場しているのですが、ヨハネ福音書では、あくまで主イエスの到来を告げる者、キリストの証人として、位置付けられているのです。
ヨハネ福音書では、主イエスは、光として、この世にお出でになりますが、ヨハネはあくまでも、その光について証しする者に過ぎないのであります。
そのヨハネについて、ヨハネ福音書では、その序章に続いて、どのような者として、現れたのかを、主イエスの登場の前に、すぐ記されているのであります。
すなわち、ヨハネの証しはこれであると、ロゴス賛歌のあとに、続けられ、それは、ユダヤ人たちが、エルサレムから、祭司やレビ人たちを遣わした時のことであると始まります。
あなたは、だれなのかと彼らは、ヨハネに向かって問いかけるのであります。人々は、メシアを待望していました。ユダヤの当局にとっては、期待と共にそれよりも恐れの方が大きかったのであります。ユダヤ全土に知れ渡っていた洗礼者ヨハネは何者なのかを知ろうとしていたのであります。
それに対して、ヨハネは、告白し、真理を隠すことはなく、自分は、キリストではないと、明言して語るのであります。では、エリヤなのかと彼らが聞くと自分はそれではないと言い、では、かの預言者なのかと問い詰められると、「否」と次第に短い問答となります。
自分はそのような、メシアでもなければ、メシアの時に現れるメシアに近い人物でもないと言い切ります。
それでは、何だというのか、送り出したユダヤの者たちに答えれるようにしてくれと強いられたとき、ヨハネは、イザヤの預言に従って、自分は荒れ野で呼ばわる声、主の道をあなた方は真っ直ぐにせよという声に過ぎないと断言するのであります。
キリストがお出でになることを告げる声に過ぎないというのです。キリストの証し人に過ぎないと。これは、しかし、素晴らしいことであります。この世に来た光を証しする証人だと、自分のことを、はっきりと告白している。
これは、洗礼者ヨハネに限らず、私どもも言うことのできる、最高の言葉であります。そして、アドベントの今、一番大事なことは、キリストこそ救い主であると呼ばわる声に、私どももなることができるということであります。
ヨハネを問い詰めたユダヤ人たちは、ファリサイ派であったと記されています。これは、ヨハネ福音書が書かれたころ、教会を迫害していたのはファリサイ派のユダヤ人たちであったことが、窺われる記事であります。
ヨハネ福音書はこのようなファリサイ派からの迫害下にあって、救い主キリストへの信仰を捨てないように励ますために書かれたものだと言われます。
このアドベントの時期にここが読まれますのは、私たちも、来たるべき主イエスへの信仰を、確認し、力強く証しすることができるためであります。
更に、ではなぜ、洗礼を授けているのかと問われると、自分の後に来る方は、その靴紐を解くことにさえ自分は価しないが、その方はあなた方は知らないが、あなた方の中に既に立っておられるという。
ユダヤの当局の者たちは、キリストを理解できなったのであります。しかし、あなた方の只中に既に立っておられると、洗礼者ヨハネは、その到来を告知するのであります。自分は、キリストでもなければ、それに近い預言者やメシア的存在でもない。ただ、キリストを証しする声として立っていると断言するのであります。
私どもも、アドベントを迎える時、そのようにキリストの到来を証しするものとされたいと思います。
今日の福音、ペリコペーの最後の節には、これは、ヨルダン川の向こう側のベタニアでの事であったと記されています。この救いの出来事が、確かな時と場所において起こったことを聖書は書き記すことを忘れません。
確かにこの地上で、特定の場所と時において、この救いの出来事は、起こったのであります。
このヨハネ福音書の初めの出来事として、洗礼者ヨハネの行ったこと、語った言葉が、私どもに救いの到来を証ししているのであります。そして、一年の初めに、私どももその声に耳を澄まし、主のお出でになる道を真っ直ぐにし、主のお進みになる道を整えると共に、自分の栄誉や評判を求めるのではなく、主の栄光をのみ求め、キリストを証しする喜びに行きたいものであります。
そして、クリスマスを、1週間後に迎えようとしている今、このキリストの身を伝える声としての伝道にいそしむ1週間としたい者であります。アーメン。
と
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