2017年12月10日(待降節第2主日―典礼色―紫―)、イザヤ書第40章1節-7節、ペトロの手紙二第3章8節-14節、マルコによる福音書第1章1節-8節、讃美唱85/1(詩編第85編2節-8節)
説教「悔い改めの時」(マルコ福音書第1章1節~8節)
アドベントの第2主日を迎えました。今年は先週の12月3日から、アドベントを迎えていますが、3年サイクルの教会暦のB年として、マルコ福音書を主たる福音書として、そこからみ言葉を与えられていきます。
マルコ福音書は、4つの福音書の中で、最も古い福音書であり、また、最も簡潔なものであります。初めて福音書としての形が示されたものとしての精彩を放っているのではないでしょうか。
さて、アドベントとは、「到来」と言う意味であり、2000年前にお生まれになった、第1のアドベントである主イエスのお誕生を、再びこのクリスマス前の時期として、待ち備えるという意味と共に、終わりの時に再び来たもう主イエスの再臨という第2のアドベントに備えて、目を覚まして生きようという時でもあります。そして、教会暦のこの一年の初めに用いられます聖壇やストールの色は紫でありますが、これは、まことの王、主イエスを表すとともに、その主が十字架に付けられたときに着せられた紫の衣の色でもあり、悔い改めの時でもあるのです。
今日は、マルコ福音書の最初の第1章1節から8節が、この日の福音として与えられています。そこから、私たちは福音を聴きたいと思います。
マルコ福音書は、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」との表題をもって書き始められています。これは、「イエス・キリストという福音の源、神の子の、」とも訳せる言葉です。当時、ローマ帝国下においては、後にローマの平和を確立したとされる、あの主イエス誕生のルカ物語において出て来る、人口調査の勅令を出す皇帝アウグスツスが、誕生したときに、神の子の誕生として、「良き知らせ」すなわち、福音が知らされたと伝えられています。
それに対して、マルコは、まことの「良き知らせ」の起こりは、主イエス・キリストにあると言うかのようであります。そして、その良き知らせは、洗礼者ヨハネの出現と共に始まったと言うのであります。
それは、預言者イザヤの書にこう書かれてあると記し始めるのですが、この預言は、マラキ書と出エジプトにある預言と、イザヤ書の預言が組み合わさったものであります。出エジプトの時に主なる神が、み使いを先に送って、イスラエルの民を約束の地に導きました。主なる神が、民を呼び出し、民を立ち帰らせて約束の地に戻されたのが出エジプトの出来事でした。
そして、預言者イザヤの時代には、イザヤ書第40章3節にあるように、バビロン捕囚の憂き目から、主なる神が、再び第2の出エジプトとして、イスラエルの民を、荒れ野で呼ばわる声に導かれ、主に再び立ち帰るように導かれ、荒れ野にまっすぐな道を用意させて、イスラエルの地に彼らを戻らせたのであります。そして、そのいずれの出エジプトにおいても、主なる神は、荒れ野において霊を送って、民をご自分に立ち帰るようにして約束の地に戻されたのであります。
そして、それは、洗礼者ヨハネが終わりの時に現れるのを預言しているとされ、メシアの来られる前に、先駆者エリヤが再来すると信じられていたのであります。そして、そのことが、ここに成就したと今日の福音において語られるのであります。
このヨハネは、荒れ野で呼ばわる声であります。そして、彼は、罪の赦しに至る悔い改めの洗礼を説教するものとして現れ、イザヤの預言の通り、成ったのであります。 ヨハネは、救い主すなわち、キリストを証しする先駆者であります。罪の赦しそのものを与えることはできない。そのための備えを、全ユダヤに、全エルサレムになさせるために、荒れ野の境目のヨルダン川で洗礼を授け始めたのであります。
人々はぞくぞくと彼のもとに押し寄せ、自らの罪を悔いて、ヨハネから洗礼を授けられていたのであります。
しかし、彼は、自分の後に、自分とはとても比較もできない強い方がお出でになり、その方こそ、聖霊で洗礼をお授けになると公言するのであります。私どもの罪の赦しを与える事のできる方は、神の子である主イエスの他には誰もいないのであります。そのことを、ヨハネは、水で洗礼を授けながら、告白するのであります。自分と主イエスが連続するものとしてではなく、まったく新しい救いが、主イエスによって、もたらされることを告白し、感謝し、ほめたたえて、私どもに告げ知らせるのであります。
そのお方をお迎えするために、洗礼者ヨハネは、荒れ野で、らくだの毛衣と腰に革の帯をし、いなごとの蜜を食しながら、人々に、主に向かって立ち帰り、正気になって心を向け、また、そこから行いも生活もただされるようにと悔い改めを説くのであります。 そして、この悔い改めの時、そして喜びの時、それがアドベントの時であります。
この新しい一年、前途に何が待っているのでありましょうか。私たちを全く新しいものとして、罪赦され、歩むことを可能にしてくださるキリストを待ち望むとき、それが、今のこの時であり、クリスマスを迎えるにあたって、最も必要なことは、神のみ旨に、全身全霊で立ち帰ることであります。
そして、今年も、心さわやかに、憂いを振り払って、主イエスのご降誕をご一緒に迎えたいものであります。
このお方こそが、神の子にして、唯一のまことの神であり、また、まことの人であるからであります。このお方こそが、聖書において待ちに待たれたメシア、キリストであり、このお方の他には、この地上では救いの手立てはないと信じるからであります。
人知では、とうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって、守るように。アーメン。
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