2016年6月26日日曜日

「罪赦され、健やかに生きる」(ルカ7:38-50)

ルカによる福音書第736-50節、2016626日(日)、聖霊降臨後第6主日(典礼色―緑―)サムエル記下第1126-1213節、ガラテヤの信徒への手紙第211-21節、讃美唱32(詩編第321-11節)

 ルカによる福音書第736節~50

 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壷を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪が赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

説教「罪赦され、健やかに生きる」(ルカ738-50

 このところ、私たちは、ルカ福音書に沿って、主イエスが弟子たち、それも12弟子たちに限らず、大勢の弟子集団を伴って、弟子たちを教育する脈絡で、エピソードや主イエスのみ言葉、なさった奇跡などを、読み進んできました。
 今日はその締めくくりの出来事であったとも言えましょう。このあとの第8章からは、女の弟子たちが主イエスの一行に伴って、支えたという記事に入っていきます。今日の物語、出来事は一読してすぐに分かるほどに、簡単明瞭に書かれている。この中に出てくる罪の女とは、我々教会の姿であると、ルターは言っているそうです。これは、私たちの物語であると捉えることができる。
 今日の前の締めくくりの言葉は、「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」となっています。今日のこの物語によって、知恵の正しさが多くの人によって証明されることになるのであります。
 主イエスが、いつ、どこでとは明示されずに、この物語はここに、記されています。たぶん、活動の拠点の町であったカファルナウムでの出来事であったでしょう。そこで、シモンというファリサイ派に、家へと食事に招かれる。やがては、主イエスを十字架につけることになる、主の敵対者となっていく、あるいは既になっていたファリサイ派の家へと勇敢にも主イエスは喜んで入っていかれる。すべての人を、神の国へ、神の支配する中へと、主イエスは招き入れたいのであります。
 さて、この町に、ある罪深い女の人がいました。彼女は、主イエスがシモンの家に招かれると聞くと、弟子の一行にまじって、この食事の席へと後ろから入っていきます。当時は、真ん中の食卓に向かって、肩肘をついて横になって食事を共にしたのであります。そして、その女性は、イエスの足の後ろのほうから近づいて、涙を流し、主の足をそれでぬらし、今度はその長い髪の毛で涙でぬれた足をふき取り、しかも、フラスコ、石膏に納められている香油をぬるのをやめようとはしないのであります。
 シモンは、いぶかしく思い、もし、この者が預言者であったなら、この女がだれで、どういう種類の者なのか、分かるはずだと、心の中でつぶやいていました。主はそれをキャッチし、シモンよ、あなたに言いたいことがあると言われました。
 シモンは、先生、どうぞおっしゃってくださいと、断言して応じます。主は、ある金の貸主に二人の借金をした者がいて、一人は500デナリオン、もう一方は50デナリオンだったが、二人とも返す力がなかったので赦してやったのだが、二人のうちどちらがより多く主人を愛するだろうかと質問します。シモンは、多く許してもらった方だと思いますと答えます。主は正しくあなたは判断したと言われた後、語りだされたのであります。シモンよ、あなたはこの女を見ないか。あなたは、私が家に入ったとき水を与えなかったが、この人は、足を涙でぬらしてくれ、その足をその髪の毛でふき取り、高価な香油を塗り、足に接吻するのをやめようとはしなかった。
 だから、この女の人が。多くの罪を赦されたことが、より多く私を愛してくれることで分かると言われるのであります。昔の口語訳では、逆にこの人は多く愛したので、多くの罪が赦されたというふうな訳となっていました。しかし、それほど、理屈に捕らわれる必要はないのかもしれません。多くの罪を赦された人は感謝して、より多く主イエスを愛し、また、周りの人々へも愛を示したことでありましょう。
 この人は、既に主や弟子たちの一行と共に、このシモンの家へと、隠れるようにして、人にもまれて入っていったときから、既にその罪は赦されていたとも言えるのであります。
この物語での罪深い女の人とは、実は教会のありのままを示しているとルターは言いましたが、この物語ではまた、シモンに対しても、主に従うように、さいさい主イエスは招いておられます。
 主イエスのたとえに、ある徴税人とファリサイ派が、神殿に祈りに来て、帰って行くたとえがありますが、義とされて帰ったのは徴税人のほうであったと、主イエスは断言しています。
 この女の人の罪が何であったかを詮索するよりも、これは私たちの物語であると受け取って、主から同じように、あなたの罪どもは赦されていると宣言していただき、平安な生活へと出て行きなさいとの、主の裏に十字架の詩をかけての約束と祝福を受けて、私たちも、まことの平安の生き方、健やかに生きる生き方へと押し出されていきたいものです。
アーメン。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。


2016年6月23日木曜日

「死から命へー悲しみから喜びへ」(ルカ7:11-17)

ルカによる福音書第711-17節、2016619日(日)、聖霊降臨後第5主日(典讃美唱30(詩編第302-6節)

 ルカによる福音書第711節~17

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めたお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


  説教「死から命へー悲しみから喜びへ」(ルカ711-17

  つい数日前、英国ではEU残留か、離脱かを問う国民投票が近づいている中、英国労働党の下院議員ジョー・コックス女史、41歳がいわば遊説中に狙撃され、更に切りつけられて死亡するといういたましい事件があったことを、たまたま見ていたテレビで知らされました。今欧州では、移民の受け入れをめぐっても、大きな論争が起こっているそうですが、コックス議員は、移民受け入れを支持する立場であったといいます。
 まだ、若い、これからの英国をリードするような貴重な人物が、突然にして命を奪われ、英国民のみならず、その知らせは国を越えて、世界に悲しみをもたらしていると報じていました。
 私どもは、日頃、自分の死について考えることを避けて、慌しく過ごしていますが、誰にでも訪れる死という現実に、このような悲劇的出来事を通して改めて思いを向けさせられます。
 それほどの死の衝撃はなくても、自分の死について考えますとき、自分の存在や意識がなくなると思っただけでも、非常な恐れを抱かされます。
 前任地の教会で知り合った、今は90歳も過ぎています老紳士の信徒の方は、ヨブ記を英語で聖書を読む会等で、交わりを深めましたが、自分はもう復活の命、永遠の生命を信じているので、死はそれほど恐怖ではなくなったと言われていました。できれば、死に際して、大きな痛み等がなければと願うのみであると、語られていました。
 さて、今日の福音は、先週の、カファルナウムでの百人隊長のしもべを、その家にまで、主イエスは、結局は行かずに、その病を癒されるという奇跡の出来事でしたが、今日はそれに続く記事であります。
 12弟子は言うまでもなく、大勢が主イエスに従ってナインの門近くまでやって来ます。百人隊長の僕を癒した、その翌日のことであるとも訳し得る出来事です。そのとき、ある一人息子の葬列の一行が、ナインの町から出てきます。やもめが、先頭に立ち、その後ろに、棺を運ぶ者たちが続き、大勢の町の群衆が、野べ送りに出てきます。主はその一行を見て、はらわたが疼く思いとなられ、その棺、実際には担架のようなものであったと思われますが、それに手をつけます。いわば、死に、主は、手をつけられるのであります。
 私たちにとっては、どうしようもない、乗り越えられない死に対して、主イエスは手をつけられる。そして、母親には、もう泣かなくてよいと言われ、さらに、死人となっている独り息子に、私はあなたに言う、起きなさいとお命じになる。すると、死人は起き上がって、物を言い出し、担架から降りて歩き回り始める。
 これを見ていたすべての者を、恐怖が捕らえ、彼らは驚きながら、神に栄光を与えながら、「私たちの内に大いなる預言者が起こされた。神はその民を訪れてくださった」と言い合うのであります。
 旧約でも預言されていた、死人は蘇り、神がその民の罪を赦し、訪ねてくださるという出来事がここに実現しているのであります。
 人々にとっては、主イエスは大いなる預言者として見られましたが、この記事の後に見られる洗礼者ヨハネは、この出来事をその弟子たちを通して知らされます。死人はよみがえり、貧しいものは福音を知らされていると。
 主イエスは、罪のとげである死を滅ぼすために、お出でになられ、神は、罪なき方を、罪ある者として十字架にかけられ、主は死んで、陰府にくだり、死人のうちから復活し、天の父の右の座にあげられるのです。
 この日の出来事を通して、神は、イエスを通して、その民である私たちの下に訪ねてくださいました。私たちが罪と死の中にあるいるその只中に、この若者を死者の中から呼び覚まし、ご自分の復活の前触れとなされたのであります。死の棘は律法の力であるとパウロは言いますが、このナインの出来事は、その死の力である罪から、私どもを救い出す、神の一方的な力を、神が現わしになった出来事であります。この若者も、ヤイロの娘やラザロと同様にやがては年老いて、地上の生涯を終えたことでありましょう。彼ら、死人から呼び起こされた者たちが、どのような思いで、その後の生涯を歩んだのかは、聖書の記すところではありません。
 問題は、私たち聖書を知る者が、この日、「大いなる預言者が、否、メシアが、わたしたちの内に起こされた、そして神はその民を訪ねてくださった」と歓呼の合唱を口ずさむことができるかどうかであります。
 私たちは、なお弱く、生涯の終わる時まで、言葉と思いと行いとによって、み前に罪を犯す者でありますが、主は既にその罪の源である死のとげを抜いてくださっています。聖霊の力によって、私たちに与えられた生涯を、このナインでの出来事を見たすべての者たちと共に、神に栄光を帰しながら歩んで生きたいものであります。アーメン。




2016年6月3日金曜日

「あなたの敵のために祈りなさい」(ルカ6:27-36)

ルカによる福音書第627-36節、2016529日(日)、聖霊降臨後第2主日(典礼色―緑―)創世記第453-15節、コリントの信徒への手紙一第1412-20節、讃美唱103(詩編第1031-13節)

ルカによる福音書第627節~36

「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛しあなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


説教「あなたの敵のために祈りなさい」(ルカ627-36

先日は、オバマ氏が71年ぶりに、アメリカ大統領として始めて、被爆地広島を訪問しました。しかし、第二次世界大戦のような大過に至るのは、何も民族間の憎悪や争いだけによるのではなく、家庭内での夫婦の不和や親しいものの間でも起こりうる憎しみが積もりに積もって、その結果起こるものであることを、考えなければなりません。
さて、今日の第二の朗読では、コリントの信徒への手紙一から、み言葉が与えられました。ここで、使徒パウロは、一万語の異言を語るよりは、理性で理解でき、聞いている人を高めうる5つの預言の言葉を、私は語りたいと語っています。
 そのような福音の言葉として、今日の主イエスのみ言葉、ルカ福音書6章の27節から36節より聞いていきたいと思います。
 今日の福音は、「しかし、あなた方、聞いている者たちに、私は言っておく」と始まります。他の誰でもない、私ども、主イエスのお言葉を信じる者に向けて、今日のメッセージは語りかけられている。そして、「あなた方の敵どもを、あなた方は愛しなさい。あなた方を憎むものに良くし、あなた方を呪う者たちを良く言い、あなた方を侮辱する者-これは、私たちを虐待し酷使する者という激しい言葉ですがーそのようなものたちのために祈りなさい」というのであります。
 これは、私たちにできることでありましょうか。それは、いかなる場合にも、そうすべきなのでありましょうか。
 主イエスは、続けて、「あなたの頬を打つ者には、他の頬をも差し出しなさい、あなたの上着を取り上げる者には、下着をも避けてはならない、あなたの持ち物を要求するすべての者に、それを与え続けなさい、あなたが金を貸した者から何かを期待して、取り戻そうとするな」と言われます。
 そして、「あなたが人間たちにしてほしい通りに、人間たちに同じようにしなさい」といういわゆる黄金律がここに記されているのであります。
 そして、あなた方を愛する者をあなた方が愛したとしても、あるいは、あなた方に良くしてくれる者に良くしたとしても、あなた方にどんな恵みがあるのか、それは、罪人たちも同じことをしていると言われます。
 恵みという言葉は、好意、あるいは感謝という意味もあります。ここでは感謝という意味に取れると思います。
 さらに、「あなた方は、絶望しないで、当てにしないで借りようとする者に貸しなさい」と主は言われます。
 ユダヤの社会では、利息を同胞から取ることを、旧約聖書においては禁じていました。ですから、何も取り戻すことを期待しないで、支払ってくれることを見込まないで、親切として、同胞の危機の救済として、求める者に貸すのでなければ、どんな報いがあなた方にあろうかと言われるのであります。
 そして再び、「あなた方の敵を愛し、憎む者たちに良くしてやり、絶望しないで貸すように」と言われ、「そのときには、あなた方には大いなる報いがあり、それによって、あなた方は、いと高き方の子となるであろう。あなた方の父は、感謝しない者にも、悪人にも、親切であるからである」と言われ、「あなた方の天の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」と言われます。
 マタイ福音書では、「あなた方の天の父は、正しい人にも、悪人にも太陽を昇らせ、雨を降らせられる。だから、あなた方も天の父が完全であるように、完全な者となりなさい」と言われています。
 完全であるということは、憐れみ深い者であるということです。
 敵を愛する、あなた方を呪う者を祝福して、すなわち、私たちを侮辱する者のために祈るということは可能でありましょうか。また、実際それはどういうことでありましょうか。
 その私たちの相手が、異常な病人のような場合にその相手方が危害を加えてくるのをそのままにしておくべきなのでしょうか。
 私にはそれができずに、侮辱に対して侮辱を返し、無抵抗では過ごせなかった苦い経験があります。
今日の第一の朗読の創世記に出てくるヨセフ物語の一節では、ヨセフは、自分をエジプトへと売った兄弟たちとの再会に際して、自分の招待を知らせ、まず、兄弟たちの犯した罪を思い起こさせ、手順を踏んでから、最後に兄たちを心から赦し、共に抱き合って涙を流すという和解の感動的な一場面が鮮やかに記されています。
 天の父は完全であられ、すべての人に親切で憐れみ深くあられ、後に十字架におかかりになり、その上で、父よ、彼らの罪を赦してください、彼らは何をしているか知らないからですと言われる主イエスを通して、敵を赦すことを実現してくださいました。
 そこに、初めて生まれる新しい生き方を、私たちは知らされています。
 赦すことのできなかった私にとっての相手との出来事も、今では過去の一つの思い出にしか過ぎなくなりました。そして、主イエスのお言葉に従ってのみ、新しい生き方の地平が開かれることを、私は知っております。「あなた方の敵を愛しなさい。あなた方を侮辱する者のために、祈りなさい。」そして、決して、悪に対して悪を返すのではなく、絶望することなく、求める者に貸し与えなさい。そのとき、あなた方の天において大いなる報いがあり、あなた方はいと高き方の子らとなるという主イエスのみ言葉に従うしか、真の平安も解決もないことを、今は心安らかに信じることができるのであります。

 人知では到底測り知ることのできない神の平安が、キリスト・イエスにあって、あなた方の心と思いとを守るように。アーメン。