2018年6月20日水曜日

―最近読んだ本からー「ナースの感情整理術」 白井 幸子 著


―最近読んだ本からー「ナースの感情整理術」
白井 幸子 著
発行者  長谷川素美
発行所  株式会社メディカ出版
2017105日発行 第1版第1

 白井幸子先生の新しい著書が出版された。思えば、今か25年ほど前に、ルーテル神学校での臨床牧会の訓練で、最終学年の秋9月頃より、東村山にある全生園に通ったときに、その終了に際して、牧師になる私どもへのお祝いの記念として贈っていただいたのが、先生の著書「看護に生かす交流分析」(医学書院)であった。
 それには、岡安大仁先生(日本大学医学部教授、ルーテル東京池袋教会員)の推薦の言葉が、最初に記されていた。自分の住んでいるすぐ近くに、このような優れた、勇敢なカウンセラーがいるとは、知らなかった。この本は、現在の時点では、最も優れたカウンセリング、交流分析の入門書であろうといった趣旨の文章が記憶に強く残っている。あれから、もう随分になる。そして、今回の本となって贈られてきた。白井先生の今に至る長い研究と臨床の経験とが、この本に凝縮していると思わされた。
 先生から聞いたお話では、最近は、さし絵や分かりやすい図などを用いて読みやすくしないと、本も売れにくいとのことであったが、そのような図解や写真も、理解の助けとなり、興味を深めるものとなっている。本の表紙には「対人関係が楽になる!『ナースの感情整理術』交流分析で納得、今日からできるコミュニケ―ションのコツ」とあり、自分のタイプが分かるエゴグラムシート
つきとあり、これでコミュニケーションはバッチリと、にこやかな看護師ふ たりの絵があり、OKのうちわをかざして、下にはひつじ2匹が伏しており、「わたしもあなたもOK牧場」案内板が書かれている。このような読みやすい本が出たのを感謝している。この書を毎日の日課として一日の始めに20分は読みたいと、改めて計画している。
 交流分析(トランスアクショナル・アナリシス)は、特に生まれてから、幼児期に至る母親や父親との関わり方など、生まれてから今までの成育歴を重視するカウンセリングの一つの大きな流れであろう。そして、「自由な子供」、「順応の子ども」「成人」「批判的親」「保護的親」という自我状態を、エゴグラム・シートを使って調べ、状況に応じてどの自我状態も自由に使えるべく挑戦してみたいと切に願っている。それにより自分も人もより良く理解できるであろう。

2018年6月9日土曜日

「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)


2018527日、三位一体主日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第6章1節-8節、ローマの信徒への手紙第814-17節、ヨハネによる福音書第31-12節、讃美唱19(詩編第192-15節)

説教「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)

 私どもは、今日、再び、教会暦の典礼色としては、白を用いて、三位一体主日という特別に大事な礼拝を迎えています。私どもは、何気なく、式文を用いて、毎週の礼拝を守っていますが、礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって」始め、終わりの部は、「父と子と聖霊のみ名によって」牧師の派遣の祝福をもって、新たな1週間の生活へと遣わされていくものであります。
 今日は、特に、ヨハネ福音書第3章1節から12節までの、ニコデモとの主イエスの対話を思いめぐらしながら、いつも耳にしています、私どもの神、三位一体の神について、それも、三つにして一つなる神である、聖霊について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。

 さて、今日の読まれました福音では、ある夜のこと、エルサレムの都におられました主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきます。人の目をはばかって、ということもあるでしょう。彼は、ファリサイ派の門とであり、イスラエルの教師、さらには、議員でもあったとあります。エルサレムのサンヘドリン、70人議会の一員でもあり、人々からも尊敬されていた名門であったと考えてもいいでしょう。ですから、昼間に来るわけにはいかなかった。ヨハネ福音書は、主イエスをメシアと証言する者は、会堂追放されるという、信者にとっては信仰を捨てるのも、致し方がない、背景のもとに、紀元後90年あるいはそれ以後のころに、迫害の激しい中で書かれた福音書だと言われています。

 そのような背景において、この物語は、記されています。今日の福音書のすぐ前には、エルサレムでなさった主イエスのしるしを見て、信じる者も多かったとあります(ヨハネ福音書第2章23節)。ニコデモも、そのような、主イエスを半分信じようとしている者として、ここに訪ねて来たのであります。

 彼は、主イエスに、「ラビ、あなたがなさっているようなしるしは、神が共におられるのでなければできないことです」と語りかけます。それに対して、主は、いきなり、あなたによくよく言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、と突き返すように語り        かけられるのであります。

 ニコデモは、老人でもあったのでしょう、「人は年を取って、再び、母親の胎内に入り、生まれ直すことができましょうか」と率直に疑問を、主に投げ返します。主が言われた「新たに」という言葉は、さらには「上から」の意味もあり、神の国を経験するには、幼子のようになって、それを受け入れることなくしては、それを味わうことは、私どもには不可能なのであります。しかし、そのことは、ニコデモには分かりません。

主は繰り返して、ニコデモに言われます。「よくよくあなたに言っておくが、人は水と霊によって、生まれさせられなければ、神の国に入ることはできない」と。だれでも、もう一度、誕生しないことには、人間の努力や生まれもって、特別に恵まれて与えられた、どんな賜物を持ち合わせた人も、だれひとり、罪から自由になり、喜びのうちに生き得るようにはなれないというのであります。

そして、肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれた者は霊であると、主は言われます。ニコデモは、もう一度母の胎に入って生まれさせられるということはできないと主に問うのですが、肉からもう一度生まれてもそれは、肉のままであり、人間の罪とがや、欠陥は同じままでしょう。

肉とは、自然のままの全体としての人間の本性を指しています。霊とは、神から生まれるものであり、あるいは神そのものをここでは言っています。神の霊によって、人間は新しい存在へと生まれさせられ、もうけられねば、神の国、天の国に入ることはできないと、主はここでニコデモに呼びかけておられるのです。肉のままでは、人はやがて、死によって滅びる空虚なものにすぎません。

 そして、主はこのように譬えて、言われます。風は思いのままに吹く、そしてその音を、あなたは聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのか知らないと。この風という言葉は、霊とも息とも訳せる言葉であります。従って、霊はその欲するところに吹いてゆく、それがどこから来てどこへ行くのかはあなたにはわからないとも訳せるのです。そして、それを一遍に訳することはできないのであります。聖霊も風も、その好むままに、自由に吹くのであります。人間の力でそれを動かすことはできない。そして、共に人間には欠かすことのできない存在なのであります。

 風が吹かなければ、作物も、自然も守られないでしょう。そして人間の生活は成り立たないでしょう。しかし、それが、どこで起こり、どこで消えるのか、我々には見えないし、理解することもできないのであります。ただその音を聞くことができる。そしてそのざわめきを、木を見、まわりを見て感じ取ることができるだけであります。聖霊の風もまた同様に、私どもは、み言葉を通して、そのざわめきを知ることができるのみであります。そして、聖霊を支配することは、人間にはできませんが、それを受けて、新しく変えられることはできるのであります。

 主は、先に、繰り返すように、人はだれでも、水と霊とによって生まれさせられねば、神の国に入ることはできないと言われました。「水と霊」とは何を言っておられるのでしょうか。洗礼者ヨハネは、水による洗礼を人々に施して、自分は、メシアの来られる前に、その備えとして、水で悔い改めの洗礼を施していると宣言していました。そして、自分の後に来られるそのお方は、聖霊で洗礼をお授けになると預言していました。ずっと後になっても、使徒言行録を見ますと、洗礼者ヨハネの弟子たちの群れが出て来ますが、彼らは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けただけで、聖霊なる者の存在する知らないというので、主イエスの名によって洗礼を授けると、聖霊がくだってその12人ほどの者たちは預言し始めたと記されています。私どもは、水と霊によって新しく創造されなければならない者であり、そのために「洗礼」という恵みの手段が与えられていると、この不思議な主イエスのみ言葉を素直に受け取ることが、私たちには許されているのではないでしょうか。

 さて、主は、ニコデモに、私があなたに、あなた方は新たに生まれさせられねばならないと言ったからといって驚かないようにといって風の譬え、霊の比喩を語られたのですが、ニコデモはやはり、どうしてそんなことが起こり得ましょうかと納得できません。

 主は、あなたは、イスラエルの教師でありながら、そんなことも分からないのかと言われて、語り続けられます。私たちは、私たちが知っていることをしゃべり、見たことを証している。それなのに、あなたがたは、受け入れないと。そして、私が、地上の事柄どもをあなた方に言っても、信じないなら、天上の事柄どもを、あなた方に、私が言ったとしても、あなた方は、信じゆだねることはないだろうとの、主の言葉で今日のみ言葉は終わっています。

 ニコデモとの11で始まっていた主イエスとの対話が、いつしか、ニコデモの属するユダヤ教の会堂の人たちと、キリスト教の弟子たちとの論争になっているのであります。

 主は、どうしても理解できないというニコデモに、あなたは神の民イスラエルの教師ではないかというふうに、権威ある聖書の専門家であるファリサイ派のリーダーに、訴えるように教えているのであります。旧約聖書には、十分調べるならば、この霊による人間の新たな誕生について書いてあるではないかと主は諭されるのでありますが、少なくとも、今日の対話においては、潜在的には、主イエスを信じようとする、半分はクリスチャンの可能性を持ってはいるものの、両者は食い違ったままの状態なのであります。

 主イエスのなさっておられるしるしを見て、主イエスをもっと知りたい、信じたいと思ってニコデモは夜やって来ましたが、ここでは結局そのまま、いつしか、ニコデモは舞台から消えてゆくのであります。

 主イエスが、ニコデモたちに神の国の説教を語られたときにも、そのしるしを見て、信じたものは多かったと記されていますが、それを告白することをしなかった、神よりも人の誉れを大事にしたからであると記されています。

そして、そのことを、イザヤは、彼らは聞くには聞くが悟らず、見るには見るが、見えないようにするために、主は譬えで語られ、主なる神が、彼らの心を頑なにされたと預言しています。

主イエスの後の弟子たち、教会の信徒たちは、この福音書が書かれた時代にも、自分たちは知っていることをしゃべり、見たことを証しているのに、あなた方、会堂で礼拝を守る、ユダヤ教の者たちは、私どもを迫害し、受け入れないと論争を続けていたのであります。

ニコデモとの対話の時にも、主イエスが言われる、霊によって、新しく生まれさせられねばならないとのみ教えを、当時の大勢のユダヤ人たちは、ニコデモと同じように、この方において、神の国が来ていることを信じゆだねることができませんでした。「言は肉となって、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ福音書第1章12節)のであります。

今の私たちはどうでしょうか。理性によっては、霊の働きを知ることはできません。人は「水と霊とによって」生まれさせられねば神の国に入ることはできないとの主のお約束に信頼し、祝福された第2の人生を歩ませて頂きましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

2018年6月4日月曜日

「信仰から来る行い」(マルコ福音書第2章1節~12節)


201863日、聖霊降臨後第2主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、ミカ書第714-20節、コリントの信徒への手紙一第924-27節、マルコによる福音書第21-12節、讃美唱32、(詩編第321-11節)

説教「信仰から来る行い」(マルコ福音書第2章1節~12節)
 
  今日は、聖霊降臨後第2主日となりました。そして、今日から再び、教会の聖壇の布などで用いる色は緑となります。この緑は、ノアの洪水のとき、箱舟から送りだした鳩が持ち帰ったオリーブの葉を表し、神にある希望を示す色であります。
 そして、この主の日に与えられた福音は、マルコ福音書第21節から12節の中風であった人が、主イエスによって癒され、寝かされてきた寝床を担ぎ上げて、皆の見ている前を自分の家へと歩いて出て行くという奇跡の物語であります。私は説教題を「信仰から来る行い」と付けておきましたが、今日の第1朗読を見ても、また、讃美唱の詩篇の個所を読みましても、いづれも憐れみ深く、私どもの罪を赦して下さる、またとなき私どもの神というテーマであります。そして、福音書もまた、私どもの罪の赦しを告げられる主イエスのみ言葉であります。はたして、私どもの罪はことごとく赦されるのでありましょうか。旧約聖書は、救い主がいつの日か現れることを預言していましたが、そのお方、主イエスがお出でになられたとき、はたしてそれと人々は気づいたでしょうか。あるいは、このお方がただ一人のメシアであり、他の救いはあり得ないのでしょうか。今私たちがこの日の主イエスをお目にかかったら、この方こそこの世に来られた唯一の神と信じ、受け入れることができたでしょうか。このお方以外に人間に救いは天下広しといえどもない、断言できるでしょうか。
 
この日主は再び、カファルナウムに戻って来られ、家におられましたが、すぐに知れ渡ってしまいます。そして、人々が押し寄せ、戸口も人だかりで中に入れそうもありません。主は、み言葉、福音を語っておられました。そこに4人に運ばれて、中風の人が寝床に寝かされたまま、連れて来られます。4人は、中に入れず、屋根に上がって屋根をはがして穴を掘り、この人を寝床のまま、つりおろします。主は彼らの信仰を見て、この人に「あなたの罪は赦されている」と断言なさるのです。そのときの喜び、驚きはいかばかりだったでしょう。これを座って、考えあぐねている律法学者たちがいました。それを霊で見抜いた主は、「あなたの罪は赦された」というのと「あなたは起き上がって床を担ぎ歩きなさい」とうのとどちらが容易かと訊ね、しかし「人の子がこの地上で罪を赦す権威を持っていること知るように」と言われ、その通りになるのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

2018年6月2日土曜日

最近読んだ本からー「詩集 雪明りの路」 伊藤 整 著


―最近読んだ本からー「詩集 雪明りの路」
伊藤 整 著
特選 名著復刻版全集  近代文学館
昭和4715日 印刷
昭和47110日 発行(第3刷)
椎の木社版

伊藤整と言えば、「チャタレー夫人の恋人」の翻訳をめぐって、表現の自由が争われた裁判を思い起こす。私の高校時代のころに、授業で「若き詩人の肖像」を文学史の中で習った記憶があるが、今回は、その詩集「雪明りの路」をある方から、貸していただいて、先に一読することができた。
伊藤整は、北海道の小樽市の出身であり、この詩集も、この故郷での懐かしい思い出を、詩作としてまとめたものである。詩人であり、小説家である著者の純粋で、赤裸々な思いが、優れた表現力で、記されている。大正158月23日に、「緑深い故郷の村で」序文を書いている。
文学者の細やかな自然の観察力や人間世界の描写には改めて驚かされる。伊藤整の場合、私は、読んでいて聖書の雅歌を思い起こさせられた。恋人との淡い恋愛感情などが、短い詩の中に、見事に切ない思いとなって表現されている。伊藤整の背景については、ほとんど何も知らないのだが、期せずして「雅歌」のような男女関係のあこがれのようなものを通して、神の人間に対する愛のようなものまで、彼は知らずして感じ取っていたのではないだろうか。
北海道には、私はまだ残念ながら行ったことがない。雪国のことを知っている人が、この詩集を始めて十分に理解してくれるだろうと、彼は序文に書いている。確かに、小樽の独特な自然や町の風情が細やかに描かれている。大正末期の時代の、今とは異なる独自の日本の歴史も感じ取られる。
しかし、この詩集は、今の日本人にも、場所と時を超えて、理解できるし、共鳴できる日本人の詩篇ということができよう。大きな字で、1ページくらいまでの詩が100篇くらいにまとめられていて、すこぶる読みやすい本となっている。それにしても、文学者の表現力、日本語の美しさには驚嘆させられる。そのような表現力、観察眼、感性といったものは、説教をする牧師にとっても、学ばねばならないものだと思わされる。そして、このような繊細な感性を持った詩人が、北海道の小樽市という、北国の自然と人々の中から生まれたことは、偶然ではあるまい。このような作品を古き良き時代の日本の産んだ名著とするだけではなく、今の私どもを振り返る生きた教科書とも見るべきであろう。