2018年5月27日、三位一体主日礼拝(―典礼色―白―)、イザヤ書第6章1節-8節、ローマの信徒への手紙第8章14節-17節、ヨハネによる福音書第3章1節-12節、讃美唱19(詩編第19編2節-15節)
説教「霊によって、新しく生まれる」(ヨハネ福音書第3章1節~12節)
私どもは、今日、再び、教会暦の典礼色としては、白を用いて、三位一体主日という特別に大事な礼拝を迎えています。私どもは、何気なく、式文を用いて、毎週の礼拝を守っていますが、礼拝は「父と子と聖霊のみ名によって」始め、終わりの部は、「父と子と聖霊のみ名によって」牧師の派遣の祝福をもって、新たな1週間の生活へと遣わされていくものであります。
今日は、特に、ヨハネ福音書第3章1節から12節までの、ニコデモとの主イエスの対話を思いめぐらしながら、いつも耳にしています、私どもの神、三位一体の神について、それも、三つにして一つなる神である、聖霊について、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
さて、今日の読まれました福音では、ある夜のこと、エルサレムの都におられました主イエスのもとに、ニコデモという人が訪ねてきます。人の目をはばかって、ということもあるでしょう。彼は、ファリサイ派の門とであり、イスラエルの教師、さらには、議員でもあったとあります。エルサレムのサンヘドリン、70人議会の一員でもあり、人々からも尊敬されていた名門であったと考えてもいいでしょう。ですから、昼間に来るわけにはいかなかった。ヨハネ福音書は、主イエスをメシアと証言する者は、会堂追放されるという、信者にとっては信仰を捨てるのも、致し方がない、背景のもとに、紀元後90年あるいはそれ以後のころに、迫害の激しい中で書かれた福音書だと言われています。
そのような背景において、この物語は、記されています。今日の福音書のすぐ前には、エルサレムでなさった主イエスのしるしを見て、信じる者も多かったとあります(ヨハネ福音書第2章23節)。ニコデモも、そのような、主イエスを半分信じようとしている者として、ここに訪ねて来たのであります。
彼は、主イエスに、「ラビ、あなたがなさっているようなしるしは、神が共におられるのでなければできないことです」と語りかけます。それに対して、主は、いきなり、あなたによくよく言っておくが、人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない、と突き返すように語り かけられるのであります。
ニコデモは、老人でもあったのでしょう、「人は年を取って、再び、母親の胎内に入り、生まれ直すことができましょうか」と率直に疑問を、主に投げ返します。主が言われた「新たに」という言葉は、さらには「上から」の意味もあり、神の国を経験するには、幼子のようになって、それを受け入れることなくしては、それを味わうことは、私どもには不可能なのであります。しかし、そのことは、ニコデモには分かりません。
主は繰り返して、ニコデモに言われます。「よくよくあなたに言っておくが、人は水と霊によって、生まれさせられなければ、神の国に入ることはできない」と。だれでも、もう一度、誕生しないことには、人間の努力や生まれもって、特別に恵まれて与えられた、どんな賜物を持ち合わせた人も、だれひとり、罪から自由になり、喜びのうちに生き得るようにはなれないというのであります。
そして、肉から生まれたものは、肉である。霊から生まれた者は霊であると、主は言われます。ニコデモは、もう一度母の胎に入って生まれさせられるということはできないと主に問うのですが、肉からもう一度生まれてもそれは、肉のままであり、人間の罪とがや、欠陥は同じままでしょう。
肉とは、自然のままの全体としての人間の本性を指しています。霊とは、神から生まれるものであり、あるいは神そのものをここでは言っています。神の霊によって、人間は新しい存在へと生まれさせられ、もうけられねば、神の国、天の国に入ることはできないと、主はここでニコデモに呼びかけておられるのです。肉のままでは、人はやがて、死によって滅びる空虚なものにすぎません。
そして、主はこのように譬えて、言われます。風は思いのままに吹く、そしてその音を、あなたは聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのか知らないと。この風という言葉は、霊とも息とも訳せる言葉であります。従って、霊はその欲するところに吹いてゆく、それがどこから来てどこへ行くのかはあなたにはわからないとも訳せるのです。そして、それを一遍に訳することはできないのであります。聖霊も風も、その好むままに、自由に吹くのであります。人間の力でそれを動かすことはできない。そして、共に人間には欠かすことのできない存在なのであります。
風が吹かなければ、作物も、自然も守られないでしょう。そして人間の生活は成り立たないでしょう。しかし、それが、どこで起こり、どこで消えるのか、我々には見えないし、理解することもできないのであります。ただその音を聞くことができる。そしてそのざわめきを、木を見、まわりを見て感じ取ることができるだけであります。聖霊の風もまた同様に、私どもは、み言葉を通して、そのざわめきを知ることができるのみであります。そして、聖霊を支配することは、人間にはできませんが、それを受けて、新しく変えられることはできるのであります。
主は、先に、繰り返すように、人はだれでも、水と霊とによって生まれさせられねば、神の国に入ることはできないと言われました。「水と霊」とは何を言っておられるのでしょうか。洗礼者ヨハネは、水による洗礼を人々に施して、自分は、メシアの来られる前に、その備えとして、水で悔い改めの洗礼を施していると宣言していました。そして、自分の後に来られるそのお方は、聖霊で洗礼をお授けになると預言していました。ずっと後になっても、使徒言行録を見ますと、洗礼者ヨハネの弟子たちの群れが出て来ますが、彼らは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けただけで、聖霊なる者の存在する知らないというので、主イエスの名によって洗礼を授けると、聖霊がくだってその12人ほどの者たちは預言し始めたと記されています。私どもは、水と霊によって新しく創造されなければならない者であり、そのために「洗礼」という恵みの手段が与えられていると、この不思議な主イエスのみ言葉を素直に受け取ることが、私たちには許されているのではないでしょうか。
さて、主は、ニコデモに、私があなたに、あなた方は新たに生まれさせられねばならないと言ったからといって驚かないようにといって風の譬え、霊の比喩を語られたのですが、ニコデモはやはり、どうしてそんなことが起こり得ましょうかと納得できません。
主は、あなたは、イスラエルの教師でありながら、そんなことも分からないのかと言われて、語り続けられます。私たちは、私たちが知っていることをしゃべり、見たことを証している。それなのに、あなたがたは、受け入れないと。そして、私が、地上の事柄どもをあなた方に言っても、信じないなら、天上の事柄どもを、あなた方に、私が言ったとしても、あなた方は、信じゆだねることはないだろうとの、主の言葉で今日のみ言葉は終わっています。
ニコデモとの1対1で始まっていた主イエスとの対話が、いつしか、ニコデモの属するユダヤ教の会堂の人たちと、キリスト教の弟子たちとの論争になっているのであります。
主は、どうしても理解できないというニコデモに、あなたは神の民イスラエルの教師ではないかというふうに、権威ある聖書の専門家であるファリサイ派のリーダーに、訴えるように教えているのであります。旧約聖書には、十分調べるならば、この霊による人間の新たな誕生について書いてあるではないかと主は諭されるのでありますが、少なくとも、今日の対話においては、潜在的には、主イエスを信じようとする、半分はクリスチャンの可能性を持ってはいるものの、両者は食い違ったままの状態なのであります。
主イエスのなさっておられるしるしを見て、主イエスをもっと知りたい、信じたいと思ってニコデモは夜やって来ましたが、ここでは結局そのまま、いつしか、ニコデモは舞台から消えてゆくのであります。
主イエスが、ニコデモたちに神の国の説教を語られたときにも、そのしるしを見て、信じたものは多かったと記されていますが、それを告白することをしなかった、神よりも人の誉れを大事にしたからであると記されています。
そして、そのことを、イザヤは、彼らは聞くには聞くが悟らず、見るには見るが、見えないようにするために、主は譬えで語られ、主なる神が、彼らの心を頑なにされたと預言しています。
主イエスの後の弟子たち、教会の信徒たちは、この福音書が書かれた時代にも、自分たちは知っていることをしゃべり、見たことを証しているのに、あなた方、会堂で礼拝を守る、ユダヤ教の者たちは、私どもを迫害し、受け入れないと論争を続けていたのであります。
ニコデモとの対話の時にも、主イエスが言われる、霊によって、新しく生まれさせられねばならないとのみ教えを、当時の大勢のユダヤ人たちは、ニコデモと同じように、この方において、神の国が来ていることを信じゆだねることができませんでした。「言は肉となって、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ福音書第1章12節)のであります。
今の私たちはどうでしょうか。理性によっては、霊の働きを知ることはできません。人は「水と霊とによって」生まれさせられねば神の国に入ることはできないとの主のお約束に信頼し、祝福された第2の人生を歩ませて頂きましょう。
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