2017年9月24日日曜日

「滅びることのない教会」(マタイ福音書第16章13節~20節)

出エジプト記第62-8節、2017917日(聖霊降臨後第15主日―典礼色―緑―)、ローマの信徒への手紙第121-8節、マタイによる福音書第1613-20節、讃美唱138(詩編第13811-8節)


説教「滅びることのない教会」(マタイ福音書第1613節~20節)

 私たちは、昨年のアドベントの時から、3年サイクルの聖書日課のA年として、主たる福音書をマタイ福音書としての一年の教会暦を歩んできましたが、今日の福音記事、マタイ福音書第1613節から20節は、その最初の記事からこれまでの総決算、頂点、あるいは、これ以降への大きな転換点ともいうべきみ言葉であり、出来事であると言えましょう。
 主イエスは、ガリラヤでの伝道、そこでの喧噪や忙しさから逃れて、フィリポ・カイザリアの地域へと12弟子たちを連れて行かれたのであります。
 多くの人々が、主イエスについて、何者なのか、いろいろな考えを思いめぐらしておりました。それについて、まず弟子たちに、人間たちが、人の子である私をどう言っているのかと質問なさったのであります。弟子たちは答えました。ある者は洗礼者ヨハネが墓からよみがえったのだと言い、別の者はあの終わりの日の来る前に再来すると当時信じられていた、はるか昔に時の偶像礼拝者たちと戦ったエリヤ、あるいは、受難の主イエスに関わって引用されているエレミヤ書の苦しみにあい、迫害を受ける預言者エレミヤという者たちもおり、さらに昔の預言者たちのうちの一人だという者たちもおりますと。
 人々のそれぞれの主張は、間違っているとはいえなかったでありましょう。そして、弟子たちも、主イエスと同行して、生活してきた中で、周りの人々の主張も耳にしていたでありましょう。また、弟子たちも、人々も、次第にこのお方が、それまでの預言者たちとは違う、それを超えたお方であるのではないかとの認識に近づいていたとも言えましょう。しかし、この時まで、そのことは不分明であったのであります。
 そして、風光明媚な、しかしまた、異教の地に退いたときに、主は、では、「あなた方は、私をだれだと言うのか」と問われるのであります。この場面で、シモン・ペトロがこう答えます。「あなたこそ、メシア、生ける神の子です」と。ここで初めて、主イエスよ、あなたこそ、待たれたキリストですと一番弟子のペトロが、信仰告白することができたのです。
 それに対して、主は、「バルヨナ・シモン、あなたは祝福されている、このことを現わしたのは、弱い人間性であるあなたではなく、天の父である」とペトロが、既に救いに与っていることを、喜ばれているのであります。
 私どもも、主イエスを信じる弟子となっておりますが、それは、私どもがそれを選んだのではなく、主イエスが私たちを選んでくださったのと同じであります。
 そして、さらに主イエスは、ペトロに向かって言われます。「あなたは、ペトロ(石・岩)、その岩(ペトラ)の上に私の教会を建てよう。陰府の門どもも、これを支配することはできないだろう。あなたに、天の国の鍵どもを与えよう。あなたが地上でつなぐことは、天においてもつながれしまってあるだろう。あなたが地上で解くことは、天においても解かれてしまってあるだろう」と。
 ここで、珍しく「教会」という言葉が出てきます。これは、もとの言葉ではエクレシアといい、外から呼ばれた者たちという意味であります。教会とは、本来建物ではなくて、主イエスによって集められた、新しい神の民を指しているのであります。
 そして、ペトロは、岩という、主イエスによって付けられたあだ名でありますが、12弟子のうちでも最初に主によって召されたシモンに向かって、あなたはペトロ、その岩の上に、私の教会を建てようと、主は言われるのであります。しかし、この岩とは、主のみ言葉でもあります。そのみ言葉に従うペトロの上に、新しい神の民を造ろうと主は約束されたのであります。ペトロは、決して揺るぎない岩ではありませんでした。しかし、主の岩に従っていく弟子たちの最初の弟子として、彼は選ばれたのであります。
 そして、この新しい神の民の集会を、陰府すなわち死者の国の戸口どもも、領有することはないであろうと、すなわち、教会が滅びることはないと主イエスはここで保証しておられるのであります。
 そして、ペトロには天の国の鍵どもが、主イエスによって与えられています。それは、死後、天国に入るときの門番というようなことではなくて、地上で、ペトロが主のみ言葉に従うとおりに、神の国においても、ペトロが神のよき管理人として、そのとおりに既になされてしまっているだろうとの約束であります。

 それは、12弟子たちのうちの最初の弟子として、選ばれたペトロへの主イエスの信任であり、委託でありました。ペトロは、しかし、この後も、決してゆるがない、落ち度のない人間ではありませんでした。主イエスはそれをすべてご存じで、ペトロを選ばれたのであります。主イエスは、御自分を否認するペトロに、受難の前に、しかしあなたは、立ち直ったとき、他の弟子たちを励ましてやりなさいと言い残しておられます。ここに、新しいイスラエルの民、救いの民であるキリストの教会が始まったのであります。このペトロへの約束は、私たちすべての弟子たちにも与えられている特権でもあります。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2017年9月9日土曜日

「信仰のみによって義とされて」 ローマの信徒のへ手紙第3章21節~22節

説教「信仰のみによって義とされて」
ローマの信徒のへ手紙第321節~22
渡邊賢次

 私たち、特に現代人は理性に重きを置き、すべての問題も人間の理性で解決することができるというのが特に近代以降の科学の発達や文明の発展の出発点になっているように思います。しかし、聖書の考え方はそのような人間の理性に対して、どこまで信頼を置き、楽観的に考えているのでしょうか。実は、決して、そうではなく、人間の理性では、決して救いを見出すことはできず、ことに人間の罪の問題に関しては、私たちは、自分の力では決して解決することはできないことを聖書は語っています。
 現代の世界も、また、今の日本の社会も、行き先が見えず、閉塞感が漂い、行き詰っているように思われます。そのような混迷の中にあって、私たちは今一度、異邦人へ福音を伝えた使徒パウロのローマの信徒への手紙の使信の中核と言われる第321節以下からのみ言葉に聞いていきたいと思います。
 ここで、パウロは、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と述べています。すぐ前の部分で、パウロは、私たちの中には、正しい人は一人もいないと言っています。アダムとエアバが罪を犯して以来、誰一人として罪なき者はいないというのであります。
 そのような闇の続いた人間の歴史の中に、まさに今や神の義が見えるようにされたと、ここでパウロは語りだしているのであります。それも、律法とは、別に律法の外から、律法の助けによらずに、しかも、律法と預言者とによって立証されながらとうのであります。
 律法によっては、救われることはできず、ただ罪の自覚しか生じないとパウロは言うのであります。律法それ自体は悪いものではなく、それ自体は聖であり、善いものであるが、それを、罪によって私たちは果たすことができないのであります。
 私たちは、律法の行いによって救われることはできないのであります。ところが、そのような私たちのところに、今や、「神の義」が見えるようにされたというのであります。神の義とは、神が正しい方であることであります。神が神であられることであります。それを、自ら、私たちに見える形で、すなわち、主イエスの十字架の死を通して明らかにされたというのであります。
 そして、それは、旧約聖書を通して証言されているとおりに、実現したというのであります。
 そして、パウロは、その神の義とは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる」ものだと言います(22節)。これは、もとの文では、イエス・キリストの信仰を通して信じるすべての者に与えられるとなっています。
 私たちの信仰の行為というのではなくて、イエス・キリストの信仰、主イエスの父なる神への信頼あるいは、あるいは私たちへの誠実に対して、私たちが信じゆだねることによって与えられる「神の義」だというのです。神が、主イエスの十字架の死を通して与えてくださった義に全面信頼を寄せることだけが、私たちに必要なことなのであります。
 この「信仰のみによって義とされる」ということを、ルターは発見し、宗教改革につながっていったのであります。行いによっては救われず、その可能性はゼロなのであります。
 そして、そこには、異邦人も、ユダヤ人も区別はなく、すべての人がそうなのであります。
 続けて、パウロは、以上のことを、詳しく説いていくのであります。すなわち、すべての人は罪を犯したので、神の栄光からは足りなくなっているといいます。その私たちを、神は、キリスト・イエスにおける贖いを通して、その血でもって無償で義としてくださる。罪の囚われの身となっていた私たちを代価を払って、自由にしてくださったのであります(25節)。
 さらに、それは、神がキリストを罪の償いの供え物として、今まで犯されてきた罪の赦免のために、ご自分の義を証しするために、キリストの血において、その信仰を通して、すなわち信じる者のために、公然とお立てになり、開示なさったというのであります(26節)。
神は、私たちの罪を放っておくことはできません。しかし、私たちは、自分の力では罪をどうすることもできません。神は私たちを造られた方であり、憐れみ深く、私たちを愛し、罪を赦すお方であられ、最後の救済手段として、ご自分のみ子を罪のなだめものとして、十字架の死にお付けになったのであります。それは、「罪の償いの供え物」すなわち、イスラエルの民のために大祭司が契約の箱のふたのいけにえの血をささげたその供えものとして、主イエスを、私たちのために与えてくださったのであります。
 このように神は忍耐して来られ、まさにこの時に、ご自分が義であることを示し、このイエスへの信仰する者たちを義とすることを示されたというのであります(26節)。
 このように、私たちは、まったく無償で、贈り物、恵みとして、キリストの十字架の死を通して、それに信頼するという信仰のみによって義とされ、神との関係が、神の側からの働きかけによって与えられているのであります。
 私たちは、恵みのみによって義とされ、今や闇から光のもとに移され、罪から解き放たれて、生かされているのであります。そして、再び神の栄光を表しつつ生きることが許されているのであります。
 神が、私たちを義としてくださったのであります。それを、私たちは信頼して受け入れるだけであります。罪に対して下される神の怒りを、神は、私たちに向けられず、罪なき独り子イエスの死を通して、罪を滅ぼしてくださったのであります。この神のなさったみ業である神の義によって、私たちは神の子としての歩みを、新しく生きることが許されているのであります。信仰のみによって、神によって義とされているその幸いに感謝しつつ、私たちは、神を愛し、隣人に愛し仕えていくキリスト者の道をここから歩んで行こうではありませんか。アーメン。