2017年3月21日火曜日

「いのちの水」(ヨハネによる福音書第4章5節~26節)

ヨハネによる福音書第45-26節、2017319日(四旬節第3主日礼拝―紫―)、出エジプト記第171-7節、ローマの信徒への手紙第417節b-25節、讃美唱142(詩編第1422-8節)

  説教「いのちの水」(ヨハネによる福音書第45節~26節) 
       
レントの中での3回目の主の日を迎えました。主の日を除く40日間の主の十字架の道行きを覚える、古くは断食等もした、慎ましやかに送るべき教会暦の時を与えられていますが、そのような中にあっても、主の日には、福音を聞くために、教会に集められ、福音の喜びによって慰められるようにと、それぞれの主の日に、福音が与えられていますが、今日は、サマリアの女性との出会いの個所が福音として、選ばれています。それは一体何故なのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 今日の福音の記事は、ヨハネ福音書第45節から26節までですが、そのすぐ前の第45節には、主イエスは、サマリアを通って行かなければならなかったとあります。ユダヤで弟子たちと共にあり、弟子たちは洗礼を授けていましたが、ユダヤ当局に知られるところとなり、ガリラヤに帰って行こうとされた。そのとき、ヨルダン川沿いではなくて、サマリアの中のスカルという町の近くを通っていかれねばならなかったのです。
 これは、ただ物理的にそうせざるを得なかったというだけではなく、神によって、ここを通っていくことに決まっていたという意味であります。ここを通って行くことにより、今日のサマリアの女性と出会うことが、神のご計画であったというのです。
 さて、主イエスは、長旅で疲れ果てて、この場所にあったヤコブの泉の上に座っておられた。弟子たちは、町へ食料の買出しに出かけていました。そこに、第6時ころ、正午頃、サマリアの女性が、水を汲みにやって来るのであります。
 ヨハネの福音書は、いくつもの対話が記されているのが特徴です。今日も、ここから、主イエスとサマリアの女性との対話が始まります。サマリアの女性は、ユダヤの民から見ると、部外者でありました。しかし、この女性は、主イエスとの対話の中で、主イエスへの信仰を持っていくのであります。
 ところが、この個所以前に出て来た対話として、ユダヤ人の指導者、ファリサイ派のニコデモが、夜やって来る物語がありました。ニコデモは、しかし、主イエスの言われることに合点がいかないのであります。主イエスは、人は、新たに、上から生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われますが、彼は、年取った者が再び、母のおなかの中の入って、生まれ変わることができましょうかといぶかるのです。主は、風がどこから吹いてきてどこへ行くのか分からないように、霊も思いのままに吹く。霊によって、新しく生まれるのもそれと同じことであると言われましたが、ニコデモはここではついに、物別れに終わっているのであります。
 それに対して、サマリアの女性は、対話の中で、次第に洞察を深め、主イエスを受け入れてゆくのです。
 さて、主イエスは、この女性に対して、私に、水を飲ませてほしいと申し出られます。女性は、ためらって、何故ユダヤ人のあなたが、サマリアの女である私に、水を飲ませてほしいと言うのかと反問します。アッシリア帝国によって北イスラエルは紀元前7世紀の頃に滅ぼされ、サマリアには別の民族が植民し、混血となり、宗教もサマリア五書だけを正典とし、サマリア人たちとユダヤ人は、その当時、交際しない。ましてや、ユダヤ人の男はサマリアの女に直接話しかけることはしなかったと言われます。
 しかし、主は、もしあなたが、神の賜物を知り、あなたに話しかけている者がだれであるのか知っていたなら、あなたは自分から、申し出て、彼はあなたに生きている水を与えたことであろうにと語られたのであります。
 この女性は、最初は、溢れ出る新鮮な水のことを考えていましたが、次第次第に、それが、自分の渇きをいやすいのちを与える水のことを言っておられると理解していきます。最初は、主イエスを何ものかと疑い、あなたは、私たちの尊敬している父祖ヤコブよりも偉いのですかと皮肉を込めて対応していますが、対話をしていく中でこの方こそ自分の抱いてきた渇きを解決してくれる方だと、次第次第に眼を開かれていくのです。主は、この井戸から飲む者はまた渇くが、私から飲む者は、その人の中で泉となって、永遠の命につながる生きた水が溢れ出ると言われます。女の人は、その水を私にも下さいと願い出るに至るのです。その命の水とは何でしょうか。それは聖霊であると言えるかもしれません。
 主は、話題を変えて、あなたの夫をここに連れてくるようにと申し付けます。しかし、彼女は、自分には夫はいないと正直に答えます。主は、それに対して、あなたは確かに正しく答えた。あなたには5人の夫がいたが今一緒にいるのは夫ではないと見抜かれます。昔から、この女性は不道徳な女性であったのだろうと、多くの人が考えてきました。しかし、必ずしも、そうではないかもしれません。レビラート婚のような事情があったのかもしれません。しかし、他の何によっても鎮められない心の渇きがあったことは否めません。彼女は、自分たちはゲリジム山で礼拝しているが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムだと言っていますと質問します。主は、あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している、救いはユダヤ人から出るからだと言われ、サマリア五書だけを正典とする彼らをただされます。
この女性は、私たちは、メシアと言われるキリストがお出でになることを知っています。その方がお出でになるとき、すべてを教えてくださるでしょうと、自分たちの信仰を表明します。彼らにとってのメシアとは、再び戻って来る教師だと考えられていたのです。
 しかし、主イエスはそれに対して、まことの礼拝をする者たちは、霊と真理において父を礼拝しなければならない。その時がやって来る、否、今がその時であると仰いました。そして、あなた方、サマリア人たちの信じているメシアとは、実は「私である、あなたとしゃべっている者である」と答えられたのであります。
 キリストとは、遠い先に来られる方ではなく、今もうこの時、来ている自分であるとこの時、主イエスは宣言されたのであります。そして、それは、預言者や、教師のような存在ではなく、「私である」という方であり「ありて、ある者」として示されているのであります。
 そして、このレントの時に、私たちは、今日、サマリアの女性がであったこの主は、このあと、十字架におかかりになるお方であることを覚え、この救い主を証する者となっていくこの女性の中に、自分たちを見出しつつ、礼拝の意味を再確認するときとしたいと思います。
               アーメン。
















                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2017年3月15日水曜日

「幼稚園の経営を劇的に変える方法」雑賀さいか竜一著

―最近読んだ本からー
「幼稚園の経営を劇的に変える方法」雑賀(さいか)竜一
                発行 2012310日    
                発行者 松本 恒
                発行者 株式会社少年写真新聞社
                定価  1620円 
 この本は、現在の日本社会での幼稚園の存在意義と、それをどのようにしてより実り豊かなものとしていけるかについて、実践的にアドバイスを与えてくれる本である。
3章から成り、幼稚園の園長をはじめ、先生方がどのようにして、幼稚園の教育の質を高めていけるかを、幼稚園の経営コンサルタントとしての長い経験から、奨めている内容になっている。
雑賀氏は、1976年生まれであるから、まだ、41歳という若さである。しかし、何百という全国の幼稚園を見て廻り、そこから考え出された内容からは、老練な経験を積んだ熟練者としか思われない、分かりやすいが、深い思索と研究に基づく啓蒙書となっている。
私は、このような書物は始めて読んだが、挿絵入り、図解入りで、現代の日本の幼稚園の抱える問題点や今後の課題が、手に取るように分かった。
この本は、幼稚園に関わる先生方や職員一人一人にもぜひ読んでいただきたいものとなっている。大きな文字で、見やすい絵や図解を頼りに、154頁ほどのものであるから、一気に読むこともできる。現場で忙しい先生方にも読んでいただいて損はないと思う。
とにかく、幼稚園は、人で決まるというのが、雑賀氏の強調してやまない点である。そして、少子化で今後厳しい、生き残りを巡っての時代が続くが、その園でしかない魅力をアップしていくことを提唱され、そのための具体策を一つ一つ挙げていかれる。
そして、今の日本で、社会が混沌としてきている中で、幼稚園の使命とその教育のやりがいの大きさを訴え続ける内容となっている。
このような仕事をなさっておられる方がいるのだと、新しい眼が開かれた思いである。私は、会社に勤めた経験はないが、世の中にこのような働きを担っている方が数多くいて、今の社会は成り立っているのであろう。
そして、幼稚園も人が担っているのであり、それぞれに園の歴史や”園風“

はあるが、人の和が結集されて始めて、良き働きが生み出され、十分な働きが可能になることを、この書を通して改めて気付かされている。

2017年3月13日月曜日

「十字架―自己愛からの解放―」(マタイによる福音書第20章17節~28節) 

マタイによる福音書第2017-28節、2017312日(四旬節第2主日礼拝―紫―)、創世記第121-8節、ローマの信徒への手紙第41-12節、讃美唱105(詩編第1051-11節)

説教「十字架―自己愛からの解放―」(マタイによる福音書第2017節~28節) 

今日のマタイによる福音書第2017節から、28節は、3回目の受難予告と言われる部分から、始まっています。既に、主イエスの一行は、エルサレムに向かう旅に入っており、主イエスは御自分がどのような苦しみを受けるのかを、より明確に弟子たちに告げています。
人の子は、祭司長たちや律法学者へと渡され、彼らは、彼に死刑の判決を下し、彼らは、異邦人へと引き渡し、彼は侮辱され、鞭打たれ、十字架に付けられる。しかも、主イエスは、その三日目に起き上がらされるであろうと、御自分の復活のことを、はっきりと告げておられる。そして、マルコ福音書のように、弟子たちは、それを聞いて、驚き恐れるというようなことは書いていません。マタイの描く弟子たちは、マルコのように無理解ではなくて、ここでも、主イエスの意図がかなり理解できているかのようであります。
そして、まさにその時、ヤコブとヨハネの母が、近寄って来て、跪き、何か要求しようとする。主が何が望みかとおただしになると、二人の息子が、あなたのみ国において、その左右に座れるようになると言って欲しいと願いを伝えるのです。
これは、自己愛、自分の欲望から来ているとも言えましょうが、自分の息子たちが天国で、主イエスの近くの最優位の場所につけるようにと願っているのであり、そのこと自体は必ずしもよくないことではないでありましょう。
しかし、エルサレムの十字架に向かうということが、どれほど厳しく辛いものであるかについては、彼らは十分には分かっていなかったのであります。
主は、御自分が飲もうとしている杯を、あなた方は飲むことができるかと聞かれました。それは、十字架での死を意味するものでありました。彼らは、「できます」と答えましたが、実際には、主を見捨てて皆逃げ出してしまうのであります。しかし、主のご復活の後、最後には、ヤコブも殉教の死を遂げることになります。
主は、み国で、最も重要な場所に、だれがつけるかは、父によって備えられている者たちに与えられているのであって、私はそれを与えることはできないと言われます。み国では先の者が後になることもあるからであります。
そして、異邦人たちにおいては、支配者たちが、人々を抑え付け、大きい者たちが権威を振るっているが、あなた方においては、そうはならないであろう。
むしろ、大きい者も、支配する者もなく、あなた方は仕える者、互いにしもべになりなさいと言われるのであります。仕えるというのは、デイアコニアという言葉につながり、下になって支え、励ますものであり、40日の主イエスの断食の後、悪魔の誘惑に打ち克った主を天使たちがしたように、もともとは食卓の給仕をするという意味であります。私たちの守ります礼拝も、実は神さまが私たちに仕えてくださるものであります。み言葉をもって、私たちに、ディアコニアをしてくださるのが礼拝であります。
そのように、私たちも、教会においては支配したり、権威を振り回したりするのではなく、互いに仕える者となるだろうと、主は約束なさっておられるのであります。
そして、それはちょうど、人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの者たちの身代金として、その命を与えるためであるのと同じだといわれるのであります。
主イエスは、エルサレムへと、十字架に向かって進んでいかれますが、それに従う私たちも、それぞれの十字架を担うことになるのであり、主と共に苦しみを負わねばならないと言われるのであります。
今、レントの時を送っている私たちもまた、お互いに仕え合うことによってこそ、まことの幸いな信仰生活と平安を与えられることを改めて覚えたいと思います。
アーメン。







                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

2017年3月10日金曜日

「随筆集『きさらぎ』」伊藤靖子著

―最近読んだ本からー
「随筆集『きさらぎ』」伊藤靖子著
                発行 2016123日    
                発行者 伊藤文雄
                印刷所 株式会社オーエム
                Yasuko Ito 2016,printed in japan 
この書は、わずか100ページほどの随筆で、各随筆は、見開きの2ページずつで書かれており、文字も大きくて読みやすくメリハリのある文章で構成されている。伊藤靖子氏は、伊藤文雄牧師夫人である。
うしろのプロフィールを見ると、1939年生まれとあるから、戦前戦後の厳しい時代を歩まれたことが、窺われる。お父様が、戦前には軍馬を育てたりする獣医のような方であって、後には学校の先生らしく、ご一家は東北や九州へと転居も何度かなさっている。
幼いときからの思い出を、随筆としてものされているが、その記憶力のよさには驚かされる。そして、その文学的素養は、幼いときからの持ち前の素質と物を真っ直ぐに見つめる賜物から育まれたのであろう。
一編一編の随筆は、戦後10年で、愛媛の田舎の南予に生まれた私にも、懐かしく思い起こされる風景や植物、食べた野苺などの食感等忘れていた、戦後に共通であった、特に地方の生活の原風景を想起させられるものが幾編もある。
大学時代には、登山部に属し、北海道や、アルプス、のちに富士山などに登った体験も、昨日のことのように鮮明に記されている。
結婚されてからは、生まれてきた子供さんたちの育児のこと、楽しかった思い出、いろいろなエピソードや印象が、愛情こまやかに回顧されている。
日本の戦時下あるいは戦後から復興にかけての日本人の幼年期や少女時代、青年期を送った人々の共通の思いがここに凝縮されているように感じられた。

その後半には、アメリカに、ご主人の伊藤先生の留学や定年後の赴任で一緒に行かれたときのさまざまなエピソードも、ちりばめられている。私は、アメリカにはまだ一度も行ったことがない身だが、アメリカについて中学生頃から抱いた強いあこがれが間違ってはいないのだと改めて思う。伊藤文雄先生の交際した、恩師であり、先輩の宣教師だった先生やや友人のご家族との触れ合いや、子供さんやお孫たちが訪ねてきた時の楽しい思い出も印象深い。七十七歳を迎えてのあとがきには、この年月のさまざまな瞬間は「私の近づきつつある終わりと共に消えていくでしょう」とある。それは残るものではあるまいか。

2017年3月8日水曜日

「神の言葉でサタンに打ち克つ主イエス」(マタイによる福音書第4章1節~11節)

「神の言葉でサタンに打ち克つ主イエス」(マタイによる福音書第41節~11節) 

 毎年、ルーテル教会では、レント(四旬節、受難節)の第1の主の日には、必ず、いわゆる荒れ野の誘惑の記事が読まれます。今年は、昨年のアドベントの時から、3年サイクルの聖書日課のA年ですから、マタイによる福音書第4章1節以下11節までが今日は与えられています。先週の灰の水曜日から始まりましたレントの主日をのぞく40日間を、私たちは、特に今日のみ言葉と共に歩むのであります。そして、主の十字架の道行きを覚えつつ、今年は遅く416日のイースターの主のご復活の日曜日までを過ごすのであります。
 「その時」“霊”は、主イエスを荒れ野へと連れ上げた、それは悪魔によって誘惑されるためであると、今日の記事は始まっています。洗礼のときに降った聖霊が、そして、彼こそ私の子と天からの声を聞かせた父なる神が、み子を荒れ野へと引き上げられる。荒れ野は、出エジプトの民がモーセに率いられて、40年間さ迷い、ついには約束の地イスラエルに帰ってくる、苦しみと、不信と試練の場所であります。そして、それは、私たちの今戦っている信仰生活の只中へと主イエスがお出でになられているということでもあります。
 そこで、4040夜、断食して過ごされたとき、誘惑する者が来て、主イエスに、言うのであります。お前が、神の子なら、これらの石に、パンに成るように命じなさい。第1の誘惑は、パンの問題であります。飢え切った主に、パンなしには生きていけないだろうと迫るのであります。主は、申命記を取り出して、人はパンだけで生きる者ではない、神の口から出て来るすべての言葉によって生きるとこの試みを退けられる。十分の私どもの食べていかなければならない問題を主イエスはだれよりも知っておられます。
出エジプトの民は、40年もの放浪の旅となった、飢えと苦しみの中で、奴隷だったが、まだ昔のエジプトでの肉鍋と腹いっぱい食べれた生活のほうがよかったと指導者モーセに呟き、不満をぶつけます。それに対して、モーセが執り成しの祈りをし、主なる神は、マナという不思議な食べ物を与えて、民を養ったのであります。そして、その間、彼らの衣服は擦り切れず、その足も腫れ上がることはなかったと聖書は記し、主イエスが、取り出した申命記の言葉が、出てくるのであります(申命記第83節)。
神の霊は、その荒れ野へと主を連れ上げられ、主はそこで、4040夜の断食をなされ、私たちが飢えを覚えるという切実な問題を味合わされる。
しかも、それを超えて、み言葉によって生きる日常生活こそ、まことの人間らしい生活となるのです。毎日のつつましい食卓も、祝福されたものであります。イスラエルの民が、苦しみの40年の荒れ野での体験で知ったように、そのような中で、鍛えられ、神のみ言葉によってこそ、人は養われ、神に信頼して生きてゆくことを学んだように、主イエスは、新しい神の民、私どもが、この日常の荒れ野の中で、み言葉に信頼して生きることを、第1にすべきことを、私どもに代わって、体験され、誘惑する者に打ち克たれたのであります。
2の悪魔の誘惑は、今度は主イエスを、神の都、エルサレムの神殿の頂上に連れて行くことによってなされます。
悪魔の方も、今度は自ら聖書の言葉をあげて、主イエスを追い詰めようとします。あなたが神の子なら、ここか飛び降りよ、詩編にも、たとえあなたがそうしても、天使たちが現れ、あなたを手で支え、足を地に打ち付けることがないように守るとあるではないかと誘うのです。
主は、「また、『あなたの神、主を試してはならない』と書いてある」と、申命記の言葉をもって、悪魔の試みを拒まれるのであります(申命記第616節)。
出エジプトの民は、荒れ野で水がなくなったとき、モーセと争い、神がいるのかどうかと言って、神を試みたのであります。サーカスのように、神殿の頂点から飛び降りで、神の子であることを示すことによって、人間を救う、そのようなことをして、人間を救う神さまではないのであります。
ここでも、主イエスは、聖書の言葉によって、悪魔の誘惑を退け、私どもが信じるべき神さまを、指し示してくださっているのであります。
3の誘惑は、その時、悪魔は、主イエスを非常に高い山に連れて行き、世界の全王国と栄光を見せて言うのであります。「あなたが、私をひれ伏し、拝むなら、これらを全部あなたに与えよう」と。この時はもう、悪魔は、ただ自分を拝めとだけ迫るのであります。
主イエスは、ここでも、やはり、申命記の言葉(第613節)を挙げてこれを撃退なさいます。神の言葉によって、悪魔には対抗するのが一番良いのであります。「出て行け、サタン、なぜなら、こう書かれているからである。『主なる神を拝み、この神にのみ仕えよ』と。」この戦いもまた、私どものために、主イエスが代わって戦われ、そして、サタンに打ち克たれているものであります。私どもも、神の栄光に対して、この世界での栄光、繁栄、栄華を求めがちな弱い存在であります。この世界に眩い栄光があります。それ自体は必ずしも悪いものではありません。しかし、それを神として、拝むように、この世の支配者であるサタンは今もそそのかすのであります。それに対して、主イエスは、まことの神を第1とし、それに仕えることを教えられ、身をもって、悪魔の誘惑を退けられます。そして、それが主イエスの十字架の道行きであります。

私どもも、日々、み言葉によって、主イエスと共に歩み、まことの幸いな人生を歩むことができます。主イエスがサタンの試みに、既に、この時の戦いに打ち克たれているからであります。アーメン