マタイによる福音書第20章17節-28節、2017年3月12日(四旬節第2主日礼拝―紫―)、創世記第12章1節-8節、ローマの信徒への手紙第4章1節-12節、讃美唱105(詩編第105編1節-11節)
説教「十字架―自己愛からの解放―」(マタイによる福音書第20章17節~28節)
今日のマタイによる福音書第20章17節から、28節は、3回目の受難予告と言われる部分から、始まっています。既に、主イエスの一行は、エルサレムに向かう旅に入っており、主イエスは御自分がどのような苦しみを受けるのかを、より明確に弟子たちに告げています。
人の子は、祭司長たちや律法学者へと渡され、彼らは、彼に死刑の判決を下し、彼らは、異邦人へと引き渡し、彼は侮辱され、鞭打たれ、十字架に付けられる。しかも、主イエスは、その三日目に起き上がらされるであろうと、御自分の復活のことを、はっきりと告げておられる。そして、マルコ福音書のように、弟子たちは、それを聞いて、驚き恐れるというようなことは書いていません。マタイの描く弟子たちは、マルコのように無理解ではなくて、ここでも、主イエスの意図がかなり理解できているかのようであります。
そして、まさにその時、ヤコブとヨハネの母が、近寄って来て、跪き、何か要求しようとする。主が何が望みかとおただしになると、二人の息子が、あなたのみ国において、その左右に座れるようになると言って欲しいと願いを伝えるのです。
これは、自己愛、自分の欲望から来ているとも言えましょうが、自分の息子たちが天国で、主イエスの近くの最優位の場所につけるようにと願っているのであり、そのこと自体は必ずしもよくないことではないでありましょう。
しかし、エルサレムの十字架に向かうということが、どれほど厳しく辛いものであるかについては、彼らは十分には分かっていなかったのであります。
主は、御自分が飲もうとしている杯を、あなた方は飲むことができるかと聞かれました。それは、十字架での死を意味するものでありました。彼らは、「できます」と答えましたが、実際には、主を見捨てて皆逃げ出してしまうのであります。しかし、主のご復活の後、最後には、ヤコブも殉教の死を遂げることになります。
主は、み国で、最も重要な場所に、だれがつけるかは、父によって備えられている者たちに与えられているのであって、私はそれを与えることはできないと言われます。み国では先の者が後になることもあるからであります。
そして、異邦人たちにおいては、支配者たちが、人々を抑え付け、大きい者たちが権威を振るっているが、あなた方においては、そうはならないであろう。
むしろ、大きい者も、支配する者もなく、あなた方は仕える者、互いにしもべになりなさいと言われるのであります。仕えるというのは、デイアコニアという言葉につながり、下になって支え、励ますものであり、40日の主イエスの断食の後、悪魔の誘惑に打ち克った主を天使たちがしたように、もともとは食卓の給仕をするという意味であります。私たちの守ります礼拝も、実は神さまが私たちに仕えてくださるものであります。み言葉をもって、私たちに、ディアコニアをしてくださるのが礼拝であります。
そのように、私たちも、教会においては支配したり、権威を振り回したりするのではなく、互いに仕える者となるだろうと、主は約束なさっておられるのであります。
そして、それはちょうど、人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの者たちの身代金として、その命を与えるためであるのと同じだといわれるのであります。
主イエスは、エルサレムへと、十字架に向かって進んでいかれますが、それに従う私たちも、それぞれの十字架を担うことになるのであり、主と共に苦しみを負わねばならないと言われるのであります。
今、レントの時を送っている私たちもまた、お互いに仕え合うことによってこそ、まことの幸いな信仰生活と平安を与えられることを改めて覚えたいと思います。
アーメン。
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