ヨハネによる福音書第4章5節-26節、2017年3月19日(四旬節第3主日礼拝―紫―)、出エジプト記第17章1節-7節、ローマの信徒への手紙第4章17節b-25節、讃美唱142(詩編第142編2節-8節)
説教「いのちの水」(ヨハネによる福音書第4章5節~26節)
レントの中での3回目の主の日を迎えました。主の日を除く40日間の主の十字架の道行きを覚える、古くは断食等もした、慎ましやかに送るべき教会暦の時を与えられていますが、そのような中にあっても、主の日には、福音を聞くために、教会に集められ、福音の喜びによって慰められるようにと、それぞれの主の日に、福音が与えられていますが、今日は、サマリアの女性との出会いの個所が福音として、選ばれています。それは一体何故なのかを、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
今日の福音の記事は、ヨハネ福音書第4章5節から26節までですが、そのすぐ前の第4章5節には、主イエスは、サマリアを通って行かなければならなかったとあります。ユダヤで弟子たちと共にあり、弟子たちは洗礼を授けていましたが、ユダヤ当局に知られるところとなり、ガリラヤに帰って行こうとされた。そのとき、ヨルダン川沿いではなくて、サマリアの中のスカルという町の近くを通っていかれねばならなかったのです。
これは、ただ物理的にそうせざるを得なかったというだけではなく、神によって、ここを通っていくことに決まっていたという意味であります。ここを通って行くことにより、今日のサマリアの女性と出会うことが、神のご計画であったというのです。
さて、主イエスは、長旅で疲れ果てて、この場所にあったヤコブの泉の上に座っておられた。弟子たちは、町へ食料の買出しに出かけていました。そこに、第6時ころ、正午頃、サマリアの女性が、水を汲みにやって来るのであります。
ヨハネの福音書は、いくつもの対話が記されているのが特徴です。今日も、ここから、主イエスとサマリアの女性との対話が始まります。サマリアの女性は、ユダヤの民から見ると、部外者でありました。しかし、この女性は、主イエスとの対話の中で、主イエスへの信仰を持っていくのであります。
ところが、この個所以前に出て来た対話として、ユダヤ人の指導者、ファリサイ派のニコデモが、夜やって来る物語がありました。ニコデモは、しかし、主イエスの言われることに合点がいかないのであります。主イエスは、人は、新たに、上から生まれなければ、神の国に入ることはできないと言われますが、彼は、年取った者が再び、母のおなかの中の入って、生まれ変わることができましょうかといぶかるのです。主は、風がどこから吹いてきてどこへ行くのか分からないように、霊も思いのままに吹く。霊によって、新しく生まれるのもそれと同じことであると言われましたが、ニコデモはここではついに、物別れに終わっているのであります。
それに対して、サマリアの女性は、対話の中で、次第に洞察を深め、主イエスを受け入れてゆくのです。
さて、主イエスは、この女性に対して、私に、水を飲ませてほしいと申し出られます。女性は、ためらって、何故ユダヤ人のあなたが、サマリアの女である私に、水を飲ませてほしいと言うのかと反問します。アッシリア帝国によって北イスラエルは紀元前7世紀の頃に滅ぼされ、サマリアには別の民族が植民し、混血となり、宗教もサマリア五書だけを正典とし、サマリア人たちとユダヤ人は、その当時、交際しない。ましてや、ユダヤ人の男はサマリアの女に直接話しかけることはしなかったと言われます。
しかし、主は、もしあなたが、神の賜物を知り、あなたに話しかけている者がだれであるのか知っていたなら、あなたは自分から、申し出て、彼はあなたに生きている水を与えたことであろうにと語られたのであります。
この女性は、最初は、溢れ出る新鮮な水のことを考えていましたが、次第次第に、それが、自分の渇きをいやすいのちを与える水のことを言っておられると理解していきます。最初は、主イエスを何ものかと疑い、あなたは、私たちの尊敬している父祖ヤコブよりも偉いのですかと皮肉を込めて対応していますが、対話をしていく中でこの方こそ自分の抱いてきた渇きを解決してくれる方だと、次第次第に眼を開かれていくのです。主は、この井戸から飲む者はまた渇くが、私から飲む者は、その人の中で泉となって、永遠の命につながる生きた水が溢れ出ると言われます。女の人は、その水を私にも下さいと願い出るに至るのです。その命の水とは何でしょうか。それは聖霊であると言えるかもしれません。
主は、話題を変えて、あなたの夫をここに連れてくるようにと申し付けます。しかし、彼女は、自分には夫はいないと正直に答えます。主は、それに対して、あなたは確かに正しく答えた。あなたには5人の夫がいたが今一緒にいるのは夫ではないと見抜かれます。昔から、この女性は不道徳な女性であったのだろうと、多くの人が考えてきました。しかし、必ずしも、そうではないかもしれません。レビラート婚のような事情があったのかもしれません。しかし、他の何によっても鎮められない心の渇きがあったことは否めません。彼女は、自分たちはゲリジム山で礼拝しているが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムだと言っていますと質問します。主は、あなた方は知らないものを礼拝しているが、私たちは知っているものを礼拝している、救いはユダヤ人から出るからだと言われ、サマリア五書だけを正典とする彼らをただされます。
この女性は、私たちは、メシアと言われるキリストがお出でになることを知っています。その方がお出でになるとき、すべてを教えてくださるでしょうと、自分たちの信仰を表明します。彼らにとってのメシアとは、再び戻って来る教師だと考えられていたのです。
しかし、主イエスはそれに対して、まことの礼拝をする者たちは、霊と真理において父を礼拝しなければならない。その時がやって来る、否、今がその時であると仰いました。そして、あなた方、サマリア人たちの信じているメシアとは、実は「私である、あなたとしゃべっている者である」と答えられたのであります。
キリストとは、遠い先に来られる方ではなく、今もうこの時、来ている自分であるとこの時、主イエスは宣言されたのであります。そして、それは、預言者や、教師のような存在ではなく、「私である」という方であり「ありて、ある者」として示されているのであります。
そして、このレントの時に、私たちは、今日、サマリアの女性がであったこの主は、このあと、十字架におかかりになるお方であることを覚え、この救い主を証する者となっていくこの女性の中に、自分たちを見出しつつ、礼拝の意味を再確認するときとしたいと思います。
アーメン。
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