「神の言葉でサタンに打ち克つ主イエス」(マタイによる福音書第4章1節~11節)
毎年、ルーテル教会では、レント(四旬節、受難節)の第1の主の日には、必ず、いわゆる荒れ野の誘惑の記事が読まれます。今年は、昨年のアドベントの時から、3年サイクルの聖書日課のA年ですから、マタイによる福音書第4章1節以下11節までが今日は与えられています。先週の灰の水曜日から始まりましたレントの主日をのぞく40日間を、私たちは、特に今日のみ言葉と共に歩むのであります。そして、主の十字架の道行きを覚えつつ、今年は遅く4月16日のイースターの主のご復活の日曜日までを過ごすのであります。
「その時」“霊”は、主イエスを荒れ野へと連れ上げた、それは悪魔によって誘惑されるためであると、今日の記事は始まっています。洗礼のときに降った聖霊が、そして、彼こそ私の子と天からの声を聞かせた父なる神が、み子を荒れ野へと引き上げられる。荒れ野は、出エジプトの民がモーセに率いられて、40年間さ迷い、ついには約束の地イスラエルに帰ってくる、苦しみと、不信と試練の場所であります。そして、それは、私たちの今戦っている信仰生活の只中へと主イエスがお出でになられているということでもあります。
そこで、40日40夜、断食して過ごされたとき、誘惑する者が来て、主イエスに、言うのであります。お前が、神の子なら、これらの石に、パンに成るように命じなさい。第1の誘惑は、パンの問題であります。飢え切った主に、パンなしには生きていけないだろうと迫るのであります。主は、申命記を取り出して、人はパンだけで生きる者ではない、神の口から出て来るすべての言葉によって生きるとこの試みを退けられる。十分の私どもの食べていかなければならない問題を主イエスはだれよりも知っておられます。
出エジプトの民は、40年もの放浪の旅となった、飢えと苦しみの中で、奴隷だったが、まだ昔のエジプトでの肉鍋と腹いっぱい食べれた生活のほうがよかったと指導者モーセに呟き、不満をぶつけます。それに対して、モーセが執り成しの祈りをし、主なる神は、マナという不思議な食べ物を与えて、民を養ったのであります。そして、その間、彼らの衣服は擦り切れず、その足も腫れ上がることはなかったと聖書は記し、主イエスが、取り出した申命記の言葉が、出てくるのであります(申命記第8章3節)。
神の霊は、その荒れ野へと主を連れ上げられ、主はそこで、40日40夜の断食をなされ、私たちが飢えを覚えるという切実な問題を味合わされる。
しかも、それを超えて、み言葉によって生きる日常生活こそ、まことの人間らしい生活となるのです。毎日のつつましい食卓も、祝福されたものであります。イスラエルの民が、苦しみの40年の荒れ野での体験で知ったように、そのような中で、鍛えられ、神のみ言葉によってこそ、人は養われ、神に信頼して生きてゆくことを学んだように、主イエスは、新しい神の民、私どもが、この日常の荒れ野の中で、み言葉に信頼して生きることを、第1にすべきことを、私どもに代わって、体験され、誘惑する者に打ち克たれたのであります。
第2の悪魔の誘惑は、今度は主イエスを、神の都、エルサレムの神殿の頂上に連れて行くことによってなされます。
悪魔の方も、今度は自ら聖書の言葉をあげて、主イエスを追い詰めようとします。あなたが神の子なら、ここか飛び降りよ、詩編にも、たとえあなたがそうしても、天使たちが現れ、あなたを手で支え、足を地に打ち付けることがないように守るとあるではないかと誘うのです。
主は、「また、『あなたの神、主を試してはならない』と書いてある」と、申命記の言葉をもって、悪魔の試みを拒まれるのであります(申命記第6章16節)。
出エジプトの民は、荒れ野で水がなくなったとき、モーセと争い、神がいるのかどうかと言って、神を試みたのであります。サーカスのように、神殿の頂点から飛び降りで、神の子であることを示すことによって、人間を救う、そのようなことをして、人間を救う神さまではないのであります。
ここでも、主イエスは、聖書の言葉によって、悪魔の誘惑を退け、私どもが信じるべき神さまを、指し示してくださっているのであります。
第3の誘惑は、その時、悪魔は、主イエスを非常に高い山に連れて行き、世界の全王国と栄光を見せて言うのであります。「あなたが、私をひれ伏し、拝むなら、これらを全部あなたに与えよう」と。この時はもう、悪魔は、ただ自分を拝めとだけ迫るのであります。
主イエスは、ここでも、やはり、申命記の言葉(第6章13節)を挙げてこれを撃退なさいます。神の言葉によって、悪魔には対抗するのが一番良いのであります。「出て行け、サタン、なぜなら、こう書かれているからである。『主なる神を拝み、この神にのみ仕えよ』と。」この戦いもまた、私どものために、主イエスが代わって戦われ、そして、サタンに打ち克たれているものであります。私どもも、神の栄光に対して、この世界での栄光、繁栄、栄華を求めがちな弱い存在であります。この世界に眩い栄光があります。それ自体は必ずしも悪いものではありません。しかし、それを神として、拝むように、この世の支配者であるサタンは今もそそのかすのであります。それに対して、主イエスは、まことの神を第1とし、それに仕えることを教えられ、身をもって、悪魔の誘惑を退けられます。そして、それが主イエスの十字架の道行きであります。
私どもも、日々、み言葉によって、主イエスと共に歩み、まことの幸いな人生を歩むことができます。主イエスがサタンの試みに、既に、この時の戦いに打ち克たれているからであります。アーメン
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