2017年10月15日(聖霊降臨後第19主日―典礼色―緑―)、イザヤ書第55章6節-9節、フィリピの信徒への手紙第1章12節-30節、マタイによる福音書第20章1節-16節、讃美唱27(詩編第27編1節-9節)
説教「逆転させる父なる神」(マタイ福音書第20章1節~16節)
今日の第1朗読のイザヤ書は、神を見い出しうる間に探し求めよとあり、神の思いは、人の思いを超えて、広く深いとあって、今日の福音につながるみ言葉であります。また、第2朗読も、フィリピ書で、パウロは、自分が牢獄で鎖につながっていることも、キリストを伝えるために役立っているので喜んでいるとのみ言葉でありました。
さて、今日の福音は、マタイ福音書第19章の天の国はどのような者のものであるかとの問いに続く、主イエスのなさった譬え話であります。すべてを捨てて従ったペトロたちに、あなた方、私の名のために家や父母などを捨てた者はその百倍の酬いを受け、永遠の命を受け継ぐが、多くの先の者が後になり、後にいる多くの者が先になると語られたのに続くみ言葉となっています。
なぜなら、天の国は、次の一家の主人である人の事情に似ているからであると、つなげられているのであります。そして、この譬えの終わりの言葉も、「このように、最後の者たちが、最初の者たちとなるであろうし、最初の者たちが最後の者たちとなろいう」となっていて、第19章の終わりと同じになっていて、今日の譬えを取り囲んでいる。
み国においては、高ぶる者は低くされ、低い者は高くされる、そのような逆転を、神はなさることができるのだから、謙遜な思いで弟子であるあなた方は、私に従ってくるようにとの主イエスの、私どもへの警告の譬えであると言えましょう。
さて、この一家の主人である人は、夜が明けると市場にやって来て、何もしないでいる者たちと、1デナリオンで、自分のぶどう園で働くように合意し、送り出します。さらに、9時にも来て、正当な者を払うからといって送り出し、12時にも、また、3時にも同じようにして、送り出すのです。
さらにまた、午後の5時にも来て、あなた方はなぜ、働かずに立っているのかと聞きます。だれも雇ってくれないからですというと、あなた方も行きなさいと、同じようにふるまいます。
そして、日が暮れたとき、管理人に命じて、終わりの者から始めて、最初の者たちまで支払わせます。終わりの者たちは1デナリオンを受け取って帰っていきます。最後の者たちになったとき、彼らは自分たちは、もっと多くもらえるだろうと思いました。ところが彼らも、1デナリオンしか受け取りませんでした。彼らは、一日中重荷と灼熱に耐えた自分たちを、最後の1時間しか果たらなかった者たちと同じにするとはといって不平を言っていました。
ぶどう園の主人は、その一人に向かって言います。私のものを私の好きなようにしてはいけないのか。それとも、私が善い者なので、あなたの目は邪悪になっているのかと。
その言葉を、共同訳聖書では、あなたは私が気前がいいので妬んでいるのかと訳しています。
この譬えは、昔からいろいろに解釈されてきました。最初の者たちは、ユダヤ人たちで、終わりの者たちは異邦人たち、あるいは、ファリサイ派のような人たいと、罪人、徴税人、遊女のような人たち、あるいは、宗教改革時代には、カトリック教会の修道僧のような人たちと、キリストへの信仰のみによって生きる人たちと。
今の私たちにとっては、教会での信仰歴の長い人や短い人と考えてもいいかもしれません。しかし、いずれにしても、私たちが、後から救われた人、恵みに与った人に対して妬みの心を持つことが、主イエスによって警告され、戒め
られていると言えましょう。主イエスを裏切ったユダも、この人と同じように、「友よ」「同志よ」といって主に語りかけられています。彼もまた、妬みをもって、主イエスを裏切ったと一面では言えましょう。
後から救いに入れられる人に対して、濁った眼、眼付きの悪い目でみてしまう。私どもの悲しい現実であります。このぶどう園の主人は、「あなたも自分の分を受け取って、ここから出て行くように。」妻子の待つ自分の家へと帰ってゆくようにと励まし、送り出しておられます。
教会の群れに、だれが先に入れられ、後になって加えられるかは、父なる神のご自由な、み心によることであります。思いもしない仕方で洗礼に与るものであります。人生の終わりの時期に迎え入れられる人もあれば、まことに様々であります。
私どもは、今はすでに信仰に入れられた者として、まだそうでない身内の者たちや、知人、友人に対して、謙虚な気持ちで、子どものように、心を低くし、目を澄まして、恵みの手段に、一人でも多くの人が与る日が来るようにと努め励みたいと思います。
そして、信仰歴が長いとか、浅いとかによって、優越感を抱いたり、妬みの目で兄弟を羨むようなことではなくて、同じ恵みに与っている幸いを、「友よ」と肩を抱き合って、喜び歩む群れとされたいものであります。そして、自分の功績やわざを誇るのではなくて、キリストを信じる者とされているその信仰によって立ち続けましょう。キリスト者の生涯これ、悔い改めであると言ったマルティン・ルターの言葉に立ち続けたいものであります。アーメン。
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