2017年10月1日(聖霊降臨後第17主日―典礼色―緑―)、エゼキエル書第33章7節-9節、ローマの信徒への手紙第12章19節-第13章10節、マタイによる福音書第18章15節-20節、讃美唱119/4(詩編第119編25節-32節)
説教「あなたの兄弟を得るために」(マタイ福音書第18章15節~20節)
「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、あなたは、自分と彼だけの、ところに行って、彼をいさめなさい」と今日の福音は、始まっています。それは、なかなかできることではありません。
自分の名誉や、対面が損なわれているような場合に、冷静にその人と二人になって、相手の罪をとがめるといったことは難しいことであります。
しかし、主はそれをしなさい、そして、もし彼があなたの言うことに耳を傾け、聞き入れたならば、そのあなたの兄弟を得たことになる、という不思議な言葉を語っておられます。
さらに、聞き入れられない場合には、もう一人、二人を連れて行って、いさめなさいと言われ、それでもだめな場合には、教会に言いなさいと言われます。
「教会」というのは、先だっても出てきましたが、エクレシアという言葉です。外から呼び出された者という意味です。そして、それは、キリストの聖なる集会、会衆という意味であります。それは、教会の建物や大きな組織ということではもともとなくて、キリストを信じる聖なる者たちのことであります。
使徒信条で、第3条で「我は聖霊を信ず。また、聖なるキリスト教会・聖徒の交わり、・・・を信ず」とあります。ルターはこの第3条を「聖化」と要約しています。天地の創造主なる神を信じ、み子による救いを、私どもは信じますが、今を生きる私たちには、聖霊が与えられていて、その神のみわざ、働きを知らしめ、私たちが、次第次第に聖くされていくというのであります。
そのキリストの体である主の教会に、3番目には申し付ければいいと、主は言われます。その罪を犯した兄弟を獲得するために、あなたはとことん意を尽くさねばならないと言われるのであります。
それでも、彼が聞き入れない場合には、そのときには、あなたはその兄弟を異邦人や徴税人のようにあらしめればよいと言われます。
これは、そのときには、その兄弟との交わりを絶ってもよいというのですが、むしろこれは、主イエスへとゆだねればいい。そして、神に責任をゆだねて、兄弟が帰って来るのを待てばよいというのであります。
そして、これに続けて、今度は、あなた方は、と複数形になって、またまた、不思議な言葉を、主は言われています。まことにあなた方に言っておくが、あなた方が地においてしばるものは、天においてもしばられてあるだろうし、あなた方が地において解くものは、天においても解かれてあるだろうと言われています。あなた方は、兄弟の罪を赦したならば、それは、天においても、神のみもとにおいても、同じであるとまで、主は約束なさっておられるのであります。逆にあなた方が赦さなかった兄弟の罪は、天上でも赦されないままになってしまうと言われております。兄弟の罪をそのままにして、その兄弟が滅びるようなことがあってはならないと主は厳しく、私たちの責任をお問いになっていると言えましょう。
これは、可能なことでありましょうか。しかし、主は、続けて、こう言われています。
もう一度、まことに、アーメン、あなた方に言っておくが、地上で、あなた方のうちの二人が何事であれ、心を合わせて要求するならば、そのことは、天のおられる私の父のもとから、彼らに成るであろうと約束しておられる。
祈りは、必ず神に聞かれると、主イエスは約束なさっておられるのです。私たちは、祈りは必ず聞かれると思って祈っているでしょうか。
この「心を合わせって」という言葉は、シンフォニーという言葉のもとになっている言葉です。交響楽団という場合のシンフォニーです。いろいろな楽器があっていい。それで、一つのハーモニーをかもしだせばいいのです。
主はさらに、なぜなら、三人が私の名へと集められるところ、彼らのその真ん中に私はいるからであると約束されています。
前半と後半のつながりは、分かりにくいのですが、あなたの兄弟があなたに罪を犯したなら、その兄弟と二人で、あるいは、三人ででも、心を合わせて、集められて、祈るならば、その祈りは聞かれる。なぜなら、そこの真ん中に私が立っているからだと、約束しておられるということっができましょう。
まったく同じ性格や、同じ考え方になることはできないでしょう。しかし、主イエスを信じる者の一人の兄弟として、その兄弟が罪に陥っているのを、そのままにしないで、いさめ、共に天の父に祈りを合わせるのであります。
それが、私たちが毎週持っている礼拝の姿でもありましょう。それが罪の赦しを告げる主の体と血につながる聖餐の意味でありましょう。
そのとき、私たちは、その自分に罪を犯した兄弟と共に、「われらに罪を犯す者をわれらが赦す如く、われらの罪をも赦したまえ」と祈らざるを得ないでありましょう。
そして、そのとき、私たちは、主にある聖徒の交わりを信ずという使徒信条の聖徒であることを証ししているのであります。
そして、主イエスが、言われている通り、罪をそのままにしなかったということになるのであります。このような祈りを、二人ででも三人ででもするようにするように、それは必ず聞かれると約束されているのであります。アーメン。
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