復活節第5主日礼拝(2023年5月7日)
Ⅰペトロ2章3~5節(429) ヨハネ福音書14章1~14節(196)
本日の福音書はイエス様と弟子の会話が中心で「道」が重要なキーワードとなっています。14章は「心を騒がせるな。神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい。」というイエス様のお言葉から始まっていますが、これは13章の終わりの方で、一番弟子のペトロの離反を予告するのに続いて語られている言葉です。
13章36節でイエス様は弟子たちに「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。これを聞いたペトロはイエス様が自分達を離れてどこかへ行ってしまうのではないかと不安になります。そこで「あなたと離れないでどこへでもついて行きたいです。」という気持ちを表そうと「あなたのためなら命を捨てる覚悟があります」と豪語します。
しかしイエス様はペトロに「鶏が鳴くまでにあなたは3度わたしのことを知らないと言う」厳しい予告をされました。ペトロは驚き「自分はそんなことは決して言わない、イエス様は自分を見損なっている」と心がざわついたでしょう。
しかしイエス様は決してペトロをみくびったのではなく、ペトロの気質を本人よりも深く理解し、ペトロの複雑な心の内を見抜いて何が起こっても慌てたり心配したりしないよう、「心を騒がせるな」とおっしゃったのです。
次に、ペトロに代わってトマスとフィリポがイエス様に問いかけていますが、彼らもペトロと同じように、イエス様のおっしゃることをきちんと捉えてはいません。そもそも、ペトロを不安に陥れた「あなたは今ついて来ることはできない」とイエス様がおっしゃった「その場所」とは、天国のことです。「後でついて来ることになる」とは、弟子たちが地上の使命を果たしたらご自分のいる天国に来ることができる」という約束でもありました。
イエス様はご自分が天から来られた神様の御子であることを弟子たちには隠していませんでしたから「私は父の家に行く」そして「あなたも後から来る」と言えば、弟子たちはイエス様が行くのが「天国」だとわかるはずだと思われたのでしょう。ですから「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われたのです。しかしトマスは「どこへ行かれるかわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と問いかけます。
弟子たちはみんな、イエス様にはイスラエルを解放する王様になってほしいと望んでいました。ですからイエス様が何度「十字架にかかる」と予告しても、それについて深く考えることもなく、受け入れようとしませんでした。そんな弟子たちにイエス様は辛抱強くお教えになり、そこで語られたのが、「私は道であり、真理であり、命である」という有名な御言葉です。ご自分を信じ、ご自分に従うものは必ず、目的地である「父なる神のおられる天国」に行って神様にお会いすることができる、と言われたのです。
すると今度はフィリポが口を開いて「では今、神様に会わせてください、そうしたら満足できます」と言い始めます。イエス様はおそらく内心ガッカリして「こんなに長く一緒にいるのに、私が誰なのかまだわからなようだね」と言われますが、お怒りになることはなく、「私を見ているということは、父なるなる神様を見たのと同じことなのだよ」と答えられます。
イエス様はご自分のなさること全ては、自分勝手に話したり行動したりしているのではないと言われました。イエス様のなさることは、イエス様の内に住んでおられる神様が行っているのだから、イエス様を見たものは神様を見たのと同じなのだ、と言われたのです。
勘違いや思い込みの激しい弟子たちに辛抱強くお教えになり、そのように約束してくださったのです。イエス様の深い愛に基づいた忍耐は、やがて弟子たちを大きく変えていくことになります イエス様がこのようにしてじっくり弟子たちにお教えになるお姿は、私たちにも大きな慰めとなります。
私たちは誰でも、最初から聖書やイエス様のお言葉がパッとわかるわけではありません。ずいぶん長いことクリスチャンをやっているのに、なかなか聖書を理解することができない、と嘆く方にたくさんお会いしてきました。その度に、イエス様の言われた「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか」というお言葉が心に浮かびます。
誰でも、「私は道」と言われて最初から時ピンとは来ないでしょう。しかしイエス様を信じてクリスチャンに求められている生活を自分の歩む道として忠実に踏み出すなら、その道自体が先へ先へと導いてくれます。それにつれて聖書やイエス様への理解が深まっていくのです。
信仰生活というものは、自分の都合で今日は熱心に、明日は自分中心に、と勝手気ままにご都合主義にやっているとイエス様の慰めは聞こえなくなります。楽しいことや好きなことは大切にしつつも、それに気を取られ過ぎればついついイエス様から離れた道に踏み込んでしまいます。そんな時は、一度立ち止まってどんどん戻って、イエス様の懐かしい声が聞こえるところまで引き返しましょう。勇気のいることかもしれませんが、迷子になったら元来た道を引き返すのが鉄則です。イエス様はそんな私たちを見守っておられ、慰め、導いてくださいます。
イエス様が弟子たちに注いだ忍耐と愛と慰めは、今も私たちに注がれています。勇気を持って、共にこの道を歩いてまいりましょう。
昨日は月一回の土曜学校でしたGWでお出かけしている家庭も多いので参加人数は少ないかなあと思ってましたが子ども17名、お父さん2名が参加してくれました
礼拝のお話は「ペンテコステ」工作はカットした松ぼっくりを使った母の日プレゼントでした羊毛フェルトやドライフラワーも加えて同じ素材を使っても個性豊かに仕上がりました
百均のカッティングボードに
着色したカット松ぼっくりを
木工ボンドで貼っていきます
メッセージカードや羊毛フェルトなどを加えて
華やかに仕上げます
みんな真剣!
グルーガンではなく木工ボンドなのでかわくまでちょっと時間がかかりますその間、希望者にドラムスを叩いてもらいながら全員で「主イエスと共に」を熱唱!
恒例の「良いお顔写真」ご紹介したい「良いお顔」がたくさんあります保護者の皆様、お差し支えなければ「うちの子OKです」とFBかメールでご一報くだされば嬉しいです(^^)
13章36節でイエス様は弟子たちに「私の行くところに、あなたは今ついてくることはできないが、後でついてくることになる」とおっしゃいました。これを聞いたペトロはイエス様が自分達を離れてどこかへ行ってしまうのではないかと不安になります。そこで「あなたと離れないでどこへでもついて行きたいです。」という気持ちを表そうと「あなたのためなら命を捨てる覚悟があります」と豪語します。
しかしイエス様はペトロに「鶏が鳴くまでにあなたは3度わたしのことを知らないと言う」厳しい予告をされました。ペトロは驚き「自分はそんなことは決して言わない、イエス様は自分を見損なっている」と心がざわついたでしょう。
しかしイエス様は決してペトロをみくびったのではなく、ペトロの気質を本人よりも深く理解し、ペトロの複雑な心の内を見抜いて何が起こっても慌てたり心配したりしないよう、「心を騒がせるな」とおっしゃったのです。
次に、ペトロに代わってトマスとフィリポがイエス様に問いかけていますが、彼らもペトロと同じように、イエス様のおっしゃることをきちんと捉えてはいません。そもそも、ペトロを不安に陥れた「あなたは今ついて来ることはできない」とイエス様がおっしゃった「その場所」とは、天国のことです。「後でついて来ることになる」とは、弟子たちが地上の使命を果たしたらご自分のいる天国に来ることができる」という約束でもありました。
イエス様はご自分が天から来られた神様の御子であることを弟子たちには隠していませんでしたから「私は父の家に行く」そして「あなたも後から来る」と言えば、弟子たちはイエス様が行くのが「天国」だとわかるはずだと思われたのでしょう。ですから「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われたのです。しかしトマスは「どこへ行かれるかわかりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」と問いかけます。
弟子たちはみんな、イエス様にはイスラエルを解放する王様になってほしいと望んでいました。ですからイエス様が何度「十字架にかかる」と予告しても、それについて深く考えることもなく、受け入れようとしませんでした。そんな弟子たちにイエス様は辛抱強くお教えになり、そこで語られたのが、「私は道であり、真理であり、命である」という有名な御言葉です。ご自分を信じ、ご自分に従うものは必ず、目的地である「父なる神のおられる天国」に行って神様にお会いすることができる、と言われたのです。
すると今度はフィリポが口を開いて「では今、神様に会わせてください、そうしたら満足できます」と言い始めます。イエス様はおそらく内心ガッカリして「こんなに長く一緒にいるのに、私が誰なのかまだわからなようだね」と言われますが、お怒りになることはなく、「私を見ているということは、父なるなる神様を見たのと同じことなのだよ」と答えられます。
イエス様はご自分のなさること全ては、自分勝手に話したり行動したりしているのではないと言われました。イエス様のなさることは、イエス様の内に住んでおられる神様が行っているのだから、イエス様を見たものは神様を見たのと同じなのだ、と言われたのです。
勘違いや思い込みの激しい弟子たちに辛抱強くお教えになり、そのように約束してくださったのです。イエス様の深い愛に基づいた忍耐は、やがて弟子たちを大きく変えていくことになります イエス様がこのようにしてじっくり弟子たちにお教えになるお姿は、私たちにも大きな慰めとなります。
私たちは誰でも、最初から聖書やイエス様のお言葉がパッとわかるわけではありません。ずいぶん長いことクリスチャンをやっているのに、なかなか聖書を理解することができない、と嘆く方にたくさんお会いしてきました。その度に、イエス様の言われた「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私がわかっていないのか」というお言葉が心に浮かびます。
誰でも、「私は道」と言われて最初から時ピンとは来ないでしょう。しかしイエス様を信じてクリスチャンに求められている生活を自分の歩む道として忠実に踏み出すなら、その道自体が先へ先へと導いてくれます。それにつれて聖書やイエス様への理解が深まっていくのです。
信仰生活というものは、自分の都合で今日は熱心に、明日は自分中心に、と勝手気ままにご都合主義にやっているとイエス様の慰めは聞こえなくなります。楽しいことや好きなことは大切にしつつも、それに気を取られ過ぎればついついイエス様から離れた道に踏み込んでしまいます。そんな時は、一度立ち止まってどんどん戻って、イエス様の懐かしい声が聞こえるところまで引き返しましょう。勇気のいることかもしれませんが、迷子になったら元来た道を引き返すのが鉄則です。イエス様はそんな私たちを見守っておられ、慰め、導いてくださいます。
イエス様が弟子たちに注いだ忍耐と愛と慰めは、今も私たちに注がれています。勇気を持って、共にこの道を歩いてまいりましょう。
百均のカッティングボードに 着色したカット松ぼっくりを 木工ボンドで貼っていきます |
メッセージカードや羊毛フェルトなどを加えて 華やかに仕上げます みんな真剣! |
グルーガンではなく木工ボンドなので
かわくまでちょっと時間がかかります
その間、希望者にドラムスを叩いてもらいながら
全員で「主イエスと共に」を熱唱!
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