復活節第4主日礼拝(2023年4月30日)
詩編23編1-4節(854)ヨハネによる福音書10章7-11節(186)
詩編23編の作者は、ダビデ王とされています。ダビデはイスラエルの人々にとって王国を栄えさせた理想の王様です。ダビデはベツレヘムの裕福な羊飼いの家に、7人の兄を持つ末っ子として生まれました。彼は幼い頃から羊の番をしており、羊飼いとしてどのように羊に接するのが最も良いのか知り尽くしていました。ダビデの勇知恵や秀でた戦闘能力は羊を盗賊や野獣から守るうちに身についたものです。
ダビデは厳しい試練を経てイスラエルの王様となってからも、かつて自分がどのようにして羊を養ったか、決して忘れることはありませんでした。ですから、自分がどれくらい神様に愛され守られて来たかを詩で表現するとき、自然と羊飼いと羊の関係を思い浮かべたのでしょう。
実は理想の王様とされたダビデも酷い罪を犯したことがあります。彼は気の迷いから部下の妻に手を出し、彼女が妊娠したと知るや、その部下を戦争の最前線に送り、殺してしまったのです。神様がそれを見逃されるはずもなく、預言者ナタンを通して厳しく叱責されます。その譬えにも「羊」が出て来ます。
この時預言者が語ったお話はこうです。多くの羊を持つ金持ちが、お客をもてなすのに自分の牛や羊を使うことを惜しみ、近くに住んでいた貧しい男がたった一匹持っていた羊をとりあげて料理し、客に振る舞った、というのです。
貧しい男はその子羊を大切にし、自分の娘のように可愛がっていた、とナタンから聞かされたダビデは怒りを爆発させ、「その金持ちはなんという残酷なことをしたのか。そんなことをする男は死刑だ!」と言い放ちます。
しかし預言者ナタンは「無慈悲で傲慢な金持ちこそ、あなたのことである」と指摘します。ダビデは我に返って自分の犯した過ちの重さに気づくのです。
かつて物言わぬ羊を守るために知恵を駆使し、体をはってきたダビデなのに、自分の部下、自分が王として守るべき存在に対して、自分の都合や欲望を優先させて大切なものを横取りした挙句、ついにはその命を奪ってしまったのです。
ダビデはその時、自分はどうやっても「本当の良い羊飼い」にはなり切れないと思い知ります。全ての人間は、誠の羊飼いである神様、イエス様に導かれなければ次々と過ちを犯す心弱く頼りない「羊」であることを認めざるを得ませんでした。彼は深く後悔し、苦しみます。
しかしダビデの苦しみは、自分自身と神様の関係をもう一度確かなものとするきっかけとなりました。苦しみの日々を過ごした後、救いようのない自分と、そんな自分を決して見捨てない神様との関係に気づかされた時、今一度神様に自分のたましいを委ねるなら、再び生き生きとさせていただけると信じたのです。
ダビデ王の息子の時代を過ぎると、イスラエル王国は二つに分裂し、度重なる戦争など複雑な歴史をたどりますが、その状況の中をからくも生き残った人々はは神様を再び裏切るまいと「これだけは守ろう」という信仰の掟「律法」を制定します。
しかし次第に「律法を守らない者は神様に愛されない」という間違った解釈がされるようになってしまいます。その歪んだ考え方は何より神様ご自身を悲しませました。そこで、そのような思い込みを正し、元々の愛を伝えるため地上に生まれてくださったのがイエス様だったのです。
イエス様の弟子達はイエス様を慕い、ある者は「共に死ぬ」とまで口にします。しかし、イエス様が数々の奇跡の業を行われるのを近くで見て来た彼らは、「イエス様はこの国の王様にふさわしい」と思い込み、自分も側近となって権力の座につくことを夢見ていました。だからこそ、イエス様が捕らえられ、十字架に掛かった時、彼らはあり得ない出来事に逃げまどい、全てを失ったと思い込んで、イエス様が示してくださった愛も教えもすっかり見失ってしまいました。
しかしイエス様は三日後に復活なさると、弟子達に再び慈しみを持って全てを教え直されたのです。弟子たちは復活したイエス様を目の当たりにして、イエス様が以前語っておられたことの一つ一つを理解していきます。スポンジに水が染み込むように、彼らはイエス様の教えを吸収していったのです。
これから先、どれほど危機的な状況に陥っても神様ご自身が「私は決してあなたから離れない」と言って下さるのですから、これほど心強いことはありません。弟子たちはそれを確信し、のちの時代に伝え、それが聖書となって世界中に広がりました。その聖書をとおして、私たちもイエス様のもとに導かれたのです。
しかし、これは私自身の思いですが、イエス様は孤独ではなかっただろうか、と考えることがあります。イエス様がどんなに言葉を尽くして神様の想いを伝えても、弟子たちは自分達の思い込みからなかなか脱することができません。つまり、言葉は通じても思いはなかなか通じない、という状態でイエス様は十字架までの3年半を弟子たちと過ごされたのです。
弟子たちに知性や教養が欠けていたからではありません。「神様が命を投げ出すほどに自分を愛している」という考えは、彼らには到底想像ができなかったからです。イエス様は伝わらないもどかしさに苦しみ、悲しみ、眠れないまま父なる神様に祈りを捧げられたのではなかったでしょうか。
弟子たちの固定観念を打ち砕くためには、真実に良き羊飼いとして十字架の上で命を落とすしかなかったのです。しかしイエス様は墓にはとどまらず、蘇られるや否や、怯えて閉じこもっている弟子のところへ向かわれたのです。それほどまでに弟子たちを愛しておられたのです。
私たちは日々聖書を読み、説教を通して知識を身につけていきます。イエス様にとって言葉の通じない羊とならないよう、イエス様に再びもどかしい思いをさせないよう、心をイエス様にむけそのお言葉の真実を汲み取ってまいりましょう。
駐車場の植え込みが賑やかになってきました
一冬咲いてくれたビオラはそろそろ終わりですし
植えっぱなし球根のハナニラもバサバサになって
ほぼ終了しましたが
これからはオダマキが次々と咲いてきます
日陰適応種のチューリップはまだ頑張っていて
サツキが蕾を開花させ
ギボウシもあっという間に葉を展開させてきました
一番後ろにはタチアオイが茂っています
西日しか当たらない条件の悪い場所ですが
植物は元気です
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