2023年4月16日日曜日

「イエスとトマス」(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2023416日)
ペトロの手紙Ⅰ  13-5節(428) ヨハネ福音書2024-31節(210


 イエス様は十字架の上で完全に死なれ、墓に葬られました。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条の中には「陰府に降り」という言葉がありますが、実際には蘇るまでの時間、どのように過ごされたのかは聖書には書かれていません。復活の朝、もしかしたらまるで深い眠りから目覚めるように意識を取り戻されたのかもしれません。


 復活したイエス様がまず頭に思い浮かべられたのは、ご自分の弟子たちのことだったでしょう。「彼らには「三日目に蘇る」と何度も話しておいたけれど、私の言葉を信じられずに意気消沈しているに違いない」そんなふうに思われたはずです。イエス様にとって、すぐに彼らのところに行くのはたやすいことでしたが、どのように行動し、声をかけるのが彼らにとって最も良いのかお考えになったのでしょう


 神学生時代、ヘブライ語を教えていただいた先生から、聖書では、喉、つまり言葉を発するところに命があると考える、と教えていただきました。その考え方で行けば、言葉を発することは生きていること、という意味になります。


 ですから復活したイエス様は、鍵をかけて隠れ家に潜んでいた弟子達のところに現れた時、彼らの真ん中に立つと一言声をお掛けになったのです。それは「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。これは以前の口語訳聖書では「安かれ」と短く訳されていた言葉で、イスラエルの言葉であるヘブライ語では、たった一言「シャローム」です。


 「シャローム」はイスラエルにおいては昔も今もごく日常的なあいさつの言葉として用いられます。しかし復活のイエス様はこの一言に万感の思いを込められたのです。イエス様はこの一言を発せられるため、この世に来られたと言っても言い過ぎではありません。受難の人生を歩まれ、十字架の上で苦しみ抜いて死なれたイエス様が、最も平安から遠いところを歩まれたかに見える方が、「あなたがたに平和があるように」と言われることに、何物にも変えられない尊さがあるのです。


 イエス様の口にのぼるとき、「シャローム」は単なる挨拶ではなくなります。イエス様がわたしたちにお与えになりたいのは「平和なのだ」ということを何より表しているのです。復活したイエス様は、何をおいてもこの言葉を弟子達に伝えられました。それは復活してまでも、伝えなければならない言葉でした。


 弟子たちが落ち着きを取り戻したその後で、イエス様はご自分の傷跡を見せられ、決して幽霊などではないことをお示しになります。その場にいた弟子たちは大いに喜び、力を得ることができました。


 しかし12人の弟子の中で、トマスだけはどういう訳かその場にいませんでした。隠れ家に戻ってきたトマスは、他の弟子たちから「私達は主を見た」といわれてもとても信じられません。ついにあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れて見なければ私は決して信じない。」と言い放ちます。イエス様が十字架で受けられた傷に指を突っ込んで見るまで信じない。なんと乱暴な言い方でしょうか。


 しかしトマスのこの反発の中には、他の仲間がイエス様と会って喜んでいるのに自分だけがお会いできなかったというショックも込められており、だから余計に頑なになって「信じない」といったのでしょう。単に慎重で疑い深いだけでなく、孤独や寂しさに心が激しく動揺していたとも思われます。


 そんなことがあって8日ののち、イエス様は再び弟子のところに来てくださいます。今度はトマスもそこにおりました。イエス様は全く同じように「あなたがたに平和があるように」と言われたあと、トマスに傷跡に触るよう促したのです。

 しかし聖書ではトマスはイエス様の御傷に触れる事も指を差し込むこともしていません。トマスにとってもはやそれはもう必要なかったのです。誰よりも深く疑ったトマスは、イエス様の「平和があるように」という呼びかけに「わたしの主、わたしの神よ」と答えるのです。


 トマスの心の中の疑いと孤独の嵐は去り、イエス様を神様と信じ、自分の主として受け入れた喜びと平安、主の与えてくださるシャロームがあったのです。 


 この出来事を記したヨハネ福音書は、イエス様が十字架に着く前の夜、最後の晩餐の席上で仰ったことを多く記録しており、1427節にはこのような御言葉があります。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな」こうおっしゃった後、「さあ、立て。ここから出かけよう」とも言われています。


 現実には、私たちの心から心配や悩みの種が尽きることはなかなかありません。おぎゃーと生まれて死ぬまで、長くて100年ほどですが、最後まで気力も体力も保てる人はまずいません。老いていけば心も弱くなり、それは少なからず信仰にも影響するでしょう。


 イエス様は人のそんな弱さすらもその身に負い、身代わりになって十字架にかかり「あなたには罪はない」と言ってくださいます。一人一人に息を吹きかけられ、聖霊を受け、新たに生きること、イエス様を信じて歩むなら、必ず天国へと迎え入れると約束してくださったのです。


 疑いと不安に夜も眠れないような心の嵐に悩む時、トマスの身に起こったことを思い出し「わたしの主、わたしの神よ」に語りかけ、祈りましょう。

 「さあ、立て。ここから出かけよう」と促してくださる方は、わたしたちを放ってはおかず、常に共におられ、先立って進んでくださいます。「心を騒がせるな。怯えるな」と呼びかけ「あなたがたに平和があるように」と祈られた主が、時代を超えて共にいてくださるのです。


復活主日礼拝は今年も賛美の歌が溢れました

子ども達、女性会、園の先生方のコーラスや

リーベクワイヤのハンドベル演奏

みんなでイエス様のご復活の喜びを表しました


「こども聖歌隊」改め「ルーテルキッズバンド」
1曲目「子ロバのうた」の間奏部分に入る聖書朗読は
頑張って自分達で読みました

2曲目「君は愛されるため生まれた」は
教会女性会と幼稚園の先生方の有志とともに賛美


リーベクワイヤの奏でる
美しいハンドベルの音色が礼拝堂に響きます

小さくて質素な礼拝堂ですが
音の響きはなかなか良いのです
建て直す時も音響を意識して設計していただく予定です

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