復活節第3主日礼拝(白)(2022年5月1日)
詩編 30編9-13節 ヨハネによる福音書 21章1-14節(211)
本日の福音書は、イエス様が復活してどれくらい後のことなのか、はっきり書かれていませんが、ペトロとそのほかの7名は、ティベリウス湖という場所で漁師の仕事に戻っています。
ルカによる福音書と使徒言行録にはイエスの弟子達がエルサレムにとどまってイエス様が天に変えられるのを見送ったことや、聖霊なる神に導かれ、新しく教会を建てあげていった様子が描かれています。いったいいつ漁師に戻ったのだろう、と不思議に思う方もおられるでしょう。しかし二つの福音書は同時期のことを複数の視点から記録しています。それによってその時起きていたことをより深く感じられてきますので、本日はそのように読み込んで参りましょう。
本日の舞台である「ティベリウス湖」はガリラヤ湖をローマ風に言い換えたものです。以前よりローマの勢力が強まったため、ローマの皇帝に由来した「ティベリウス湖」という呼び方の方が通りが良くなったのかもしれません。
ガリラヤ湖といえば、弟子達がイエス様から「人間を取る漁師にしよう」と言われ、従った所でした。弟子達はイエス様についていけば、ローマ帝国を追い出してイエスラエルが再び独立できるかもしれない、と考えていました。しかしその夢はイエス様の死によってあっという間に崩れ去りました。
ところがそれから三日ののち、イエス様が復活して戻ってきてくださったのです。それは何にも勝る素晴らしい奇跡でした。彼らはイエス様に命じられる通り、新たな伝道活動に踏み出そうとしたはずです。
しかし弟子達は何らかの原因で挫折を味わいます。もともと一般庶民だった彼らにとって、新しい弟子達を導いていく役割は荷が重かったのかもしれません。宣教活動を一旦休止し、ガリラヤに戻って来たようです。故郷で漁師の仕事を再開すれば、食べるには困らないでしょう。
この日、シモン・ペトロが漁に行こうとすると、残りの弟子達も何か主体性なくぞろぞろとついてきます。しかし夜通し漁をしても網には何一つかかりませんでした。弟子達の何人かは、イエス様と出会ったあの日もこんな風だった、と思ったかもしれませんが、それはもはや遠い昔の出来事でした。
そのような弟子達の様子を、イエス様は一部始終見ておられました。神様は人間には強制的に介入せず、自分の意志で行動してほしいと常に願っておられました。神様はご自身がお作りになった人間の可能性を信じておられたのです。人間の世界は神の独り子イエス様を十字架にかけるほどに混乱と流血に満ちているけれど、同時に平和な世界を築く力を持っていると信じておられました。
とはいえ、人間が私利私欲をコントロールし、互いを思いやる心を養うためには訓練が必要ですし、何より間違いのないお手本が必要です。そのために神様はどんな時も暴力で解決することをなさらなかった、復活の主イエスに学ぶことを望まれたのです。あの日と同じように、魚一匹とれないという経験を弟子達にさせたのは、イエス様の存在をもう一度リアルに感じさせるためだったのでしょう。
その上で、イエス様はここしかないというタイミングで弟子達に声をおかけになりました。まず「子たちよ、何か食べるものがあるか」と質問され、彼らが「何もありません」と答えるのを確認されてから、網を舟の右側に網を打つように命じられます。弟子達は威厳に圧倒されて素直に従うと、網一杯の魚が獲れたのです。
するとまず、イエス様の愛する弟子、つまり福音書記者ヨハネが、その人物がイエス様であることに気づき「主だ」と口にします。この声を聞いたペトロは目が覚めたように、岸に立っているイエス様を見つけ出すのです。
彼らは漁の最中で、裸同然でしがペトロは急いで服を纏い、湖に飛び込むと約90メートルほど向こうの岸におられるイエス様の元へと一気に泳いでいったのです。水に飛び込むなら普通は衣類を脱ぐものですが、改めて服を着たところにペトロのイエス様に対する愛情と尊敬が感じられて、より印象的な場面です。イエス様の一番弟子と呼ばれたペトロです。今イエス様がそこにおられることを知ったとき、無気力な日々を過ごしていたことを猛烈に恥じたに違いありません。この時ペトロは再び主イエスの前に生きるものになり、よみがえったのでした。
イエス様の教えを広く宣教していくには、イエス様のよみがえりも大事なことですが、その事実を信じ、その教えに仕えていく弟子のよみがえりがあってこそ可能なのです。漠然とイエス様の教えを知っている、というのではなく、自分を見守り、愛してくれる方を信頼し、おそばに喜んで近づこうとする心が全てを変えるのです。自分は主イエスの弟子であることを、心のうちによみがえらせたなら、イエス様は弟子である私たちが何をすべきなのか必ず教えてくださるのです。
イエス様のご命令で弟子達が湖に網を下ろした時、あまりに捕れすぎて船に引き上げることができませんでした。仕方なく網を水中に下ろしたままイエス様のもとに来ると、イエス様はペトロに魚を何匹か持ってきなさい、と告げます。そこでペトロが船に乗って網を引くと陸に引き上げることができたのです。
イエス様のご命令に従って「人間をとる漁師」となる時、イエス様のお声がけさえあれば、一人一人の働きは無駄になることは無く、網は決して破れないのです。
私たちは、今も生ける神として、私たちの中心にいてくださるイエス様の存在を忘れることなく、今の時代に「平和ばかり説く宗教は無力だ」と罵られたとしても、正々堂々と聖書の教えを口にし、よみがえった弟子として、信仰と希望と愛に満たされた群れとして、共に歩んで参りましょう。
イエス様に命じられて私たちが引く網は決して破れないことを信頼しましょう。ガリラヤ湖の岸辺に立つイエス様は、私たちにそう望んでおられるのです。
久しぶりに土曜学校を行う予定です
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