聖餐式・全聖徒主日礼拝(2023年11月5日)
ヨハネの黙示録7章9-17節 Ⅰヨハネの手紙 3章1-3節(443)
マタイによる福音書 5章1-12節(6)
本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝です。多くの教会は故人を覚えて1年に一回、このような礼拝の時を持っています。この礼拝は故人を供養するとか冥福を祈る、といったものではありません。先に死を迎えた愛する友や家族の魂が、今まさに天国でイエス様と共に恵みの内にあることを確信し、感謝する礼拝です。あの方、この方の生前を思い出し、共にこの地上を歩んだことを思い返しながらイエス様に感謝してまいりましょう。
本日、この日に与えられた福音書の個所は、イエス様の教えの中でも有名な「山上の垂訓」、または「山上の説教」と呼ばれる箇所です。
イエス様の語られる「幸せの定義」は自分の心に落とし込もうとすると、そう簡単ではありません。「なんでこれが幸せなのか」と疑問に思い、理解するのを早々に諦めてしまうのです。
しかし、そんな私たちでも、自分が不幸だ、と嘆いているとき、突然発想の逆転をイエス様に与えられ、はっと気づいて「なんだ、私は幸せ者じゃないか」と気づく経験をすることもあります。イエス様の教えてくださる「幸せの定義」を今一度、聞き直し、新しい発見、新しい方向性を共に手にしたいと思うのです。
長生きすれば幸せ、お金持ちになれば幸せ、頭が良ければ幸せ。夢を叶えられるなら幸せ。容姿に恵まれている人は幸せ。そう考えるのが一般的でしょう。
幸せそうに見える人生の成功者のインタビューなどを聞くと、「私はラッキーでした」という方もいますし、「もちろん、人一倍努力しました」と言う答えもあるでしょう。では、成功して幸せですかと聞くと、「すごく幸せです」と答える人は案外少ないのです。「いつ、この幸せが崩れるのかわからない」「いつライバルに蹴落とされるかわからない」という不安は拭えないようなのです。
しかし、イエス様は教えるのです。「心の貧しい人、悲しむ人々、あなた方は幸いだ」。その理由には「天の国はその人たちのものである」と、そして「その人は慰められる」と言われます。
謎のような言葉かもしれませんが、実はここにイエス様の強い思いが込められているのです。イエス様が呼びかける人々は、心の貧しさを知っている人、悲しみを知っている人です。イエス様の言葉は単なる気休めの言葉ではありません。
イエス様は神の子として天国で暮らしておられたのに、天国は本当にあるのだと希望を伝えるためにこの世に来られました。例えるなら、世界で最も尊い身分の王子が、その高い地位に留まったままでは人々を慰められないと、あえてその地位を捨て、最も貧しい姿になって民衆と共に生きることを選んだということなのです。
イエス様は飼馬桶をベビーベットとせざるを得ないような貧しさの中に生まれ、幼い時に命を狙われてエジプトに難民として避難し、早くに育ての父ヨセフを亡くすという、苦しみや別離を知った方でした。だからこそ、言葉だけではない、悲しみを知るものとして「共に天の国で暮らそう」と呼びかけてくださるのです。
そして苦しむ人々は、イエス様のお言葉の中にうわべだけでない悲しみと、それを超えた幸せを感じ取りました。そうしてイエス様に捉えられたのが、キリスト者となった人々なのです。
多くの市民はもちろん積極的に犯罪者になろうとは思っていません。しかしこういった人でも、何かのきっかけで不幸のどん底に叩き込まれる時、自分の中に闇があることを知ります。自分の感情に任せ、闇に落ちるか、イエス様から差し出された手を握って共に歩むかは決定的な違いがあります。
そして苦しみの中にあっても人生を投げ出さず、イエス・キリストと歩む大切さを思い出させてくれるのが、今日という日、全聖徒の日なのです。この写真の人々は、はらわたがちぎれるような悲しみがあっても、少なくともイエス様の手を握り返し耐え忍びました。そして今は天の御国でイエス様と共に幸いな時を過ごしておられる証し人なのです。
ですから私たちは、これらの方々との別離の悲しみを通して、死の向こう側に神の国があることを堅く信じ、この世に指し示すのです。
この全聖徒の日は、西暦600年頃から始まった「諸聖人の日」が元になっているそうです。聖人とは、キリスト教徒として良い働きをしたけれど、時の権力者の怒りを買って殉教した人々です。彼らはキリストの愛に忠実な人々で、罪人を回心させたり、貧しい家庭を救ったり、戦争でつぶされそうな男女の愛を守ったりしました。しかし教会組織は彼らの行動を規律を乱すものと断罪し、処刑したりしましたが、あとあとになって組織全体が悔い改め、処刑してしまった人々を「聖人」として祭り上げ、崇める対象としたのです。
しかし、宗教改革者ルターは、イエス様を信じる人は全て聖人であり、神の子として良い働きをする役割が与えられていると教えました。私たちは、神様の元に平等であり、この地上でどれくらい活躍したか、などこの世の基準はまったく意味がないのです。
私たちは、イエス様に与えられた愛の心を大事にし、イエス様を忘れないでいれば、どのような人生を歩んでも、この世の生涯を終えたなら、聖人であり、神の子であり、聖徒なのです。そして天国においては、イエス様に愛され神様に受け入れられ、「神の子」と呼ばれるようになるのです。
昨日は土曜学校でした。
連休の中日だったせいか、人数は13名といつもより少なめでしたが
楽しくもり上がることができました。
賛美は「主イエスと共に」「さあ讃美しよう」
ルーテルキッズバンドから3名が参加していたので
ボンゴとリードボーカルをお願いしました。
恥ずかしがるかと思ったら
堂々たるパフォーマンスで教師の方が感動です!
S君のボンゴはとってもいい音です ボーカルの二人も堂に入ったもの ハンドクリップを入れてノリノリ(死語?)で 歌ってくれました |
お話は「アメリカの初めての収穫感謝祭」 適切な教材が見つからなかったので 久しぶりのなんちゃって腹話術と 紙芝居を組み合わせて ネイティブアメリカンに助けられた ピューリタンのお話を聞いてもらいました
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