2022年11月6日日曜日

「キリストの愛」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒の日礼拝(白)(2022年11月6日)
エフェソの信徒への手紙 1章11-16節(352)
ルカによる福音書 6章20-23節(112)


 本日はルカによる福音書からイエス様の御言葉に聞いてまいります。

 ここに記されたイエス様の教えは、マタイ福音書の有名な「山上の説教」とほぼ同じ内容です。ただ、マタイ福音書は「心の貧しい人は幸いである」と、「精神的な貧しさ」について説いていますが、本日のルカ福音書では、経済的に立ち行かない貧しさ、本当に今お金がなくて飢えている人々へのメッセージが語られています。


 マタイの「山上の説教」で語られる「貧しさ」とは、学があり、経済的にも不自由のない人が幸福について思いめぐらす時、どこかに自分の求める真理があるに違いない、と心が叫んでいる。それに対してイエス様は必ず答えてくださる、と記しています。

 一方ルカは「平地の説教」と呼ばれています。ここでイエス様が「幸いだ」と言っておられるのは、今飢えている人々、今泣いている人々なのです。抽象的な例えではありません。


 貧しさや飢え、悲しみを積極的に喜ぶ人はいません。しかしここでイエス様がおっしゃる大切なポイントは、「人の子」つまり、イエス様と繋がったために貧乏になったりお腹を空かせたり、人から憎まれたりするなら、喜び踊るほどに幸せなことだ、と言われるのです。


 ただ、イエス様を信じ抜こうとする時、漏れなく不幸がついてくるとしたら、本気でキリスト教を信じようとする人はいなくなるかもしれません。しかし、イエス様が人間の不幸を望まれる方でないのは私たちがよく知っています。聖書に描かれたイエス様のイメージは、罪人を救うために愛のこもった配慮を行い、集まってくる子どもを愛し、友なきものの友となる方だからです。そんな方が私たちが不幸になるのを単に喜ばれるはずがありません。それを前提にさらに考えてみましょう。


 イエス様は不治の病に犯された病人を癒やし、5000人に食べ物を与え、あれ狂う波や風を鎮めることもなさいました。それはもちろん、イエス様が神様だったからです。しかし、それ以上に、イエス様が父なる神様に完全な信頼を置き、その御心に従うことをご自分の使命として疑うことなく、とことん信仰に生きておられたからです。


 イエス様の弟子たちは自分たちの信仰の弱さを知っていましたから、決して揺らぐことのないイエス様を尊敬し、どこまでも従おうとしました。しかしユダヤ教の教師たちや政治的リーダーたちは自分たちより神様のことを知っているイエス様を妬みました。


 ファリサイ派の人達や律法学者達が、聖書にはこの様に書いているけれど、実際にその通り行動するのは無理だ、と考えていることを、イエス様は「それこそが大切だ」と断言して易々とやってのけるのですから、劣等感を刺激され、嫉妬して悪口を言ったり、足を引っ張るようなことをしてしまうのです。


 私たちキリスト者は、イエス様を信じて生きることを決意して洗礼を受け、弟子となりました。しかし、キリスト者として過ごせば過ごすだけ、イエス様をお手本にして歩むことがどれほど困難なことかわかってきます。例えば、日本社会では日曜日に何かと行事が組み込まれますから、それを退けて礼拝を守るのは一苦労です。「礼拝に行きます」と強く主張すれば変人と思われたり、人間関係が壊れてしまいそうで不安になるのです。


 それでもどうにか日曜日は教会に行く、という習慣が身についたとしても、教会の中の人間関係に躓くこともあります。経済力や、学力や、地位や名誉といった価値観が教会の中にもあることを知って、結局世の中の人と同じではないか、とショックを受けてしまうこともあります。先輩クリスチャンから、励ましのつもりで「私たちはイエス様と同じことはできないから信仰生活にも妥協は必要だよ」と声をかられ、かえってがっかりした、という話を聞いたこともあります。


 こんなふうに、私たちがイエス様をお手本として歩むことの難しさはそこら中にゴロゴロしています。それでも私たちは、厳しい現実の中で、信仰を貫くように召されていることを忘れてはいけないのです。どんなに迷った時でも、洗礼を受けたときに信じたこと「私はイエス様に招かれた」という確信に立ち返ることが、信仰を失わないで生きるたった一つの秘訣なのです。


 会社より信仰を優先して、職を失ってお腹を空かせたり、友人だと思った人から絶交を言い渡され涙することもあるかもしれません。それでもイエス様が私が失ったものを補って、有り余る恵みで満たしてくださる、と信じぬけるなら、その人は幸いだ。イエス様はそのように言っておられるのです。


 私たちが決して忘れてはならないのは、イエス様がご自分を信じる者たちの人生を導き、その人生がどのような終わり方をしようとも、天国の場所をすでに用意されている、ということなのです。


 今日、私たちは、先に天国に召された兄弟姉妹を偲びながら、自分の生き方を、振り返り、どんな時もイエス様がそばにいて導いてくださったことを確認したいと思うのです。


 現代、日本全体を見た時、キリスト教は元気が良いとは言えません。しかし、こんな今だからこそ、貧しい人、飢えている人、泣いている人の助けになりなさい、とイエス様が語りかけておられるのです。そのためには、私たち一人一人がキリストに愛されていることを疑わず、すべてのものは必ず備えられていくことを信じましょう。今私たちが貧しくとも、飢えていても、泣いていても、かならず、幸せになれることを受け入れて参りましょう。




11月5日(土)は予定通り土曜学校を行いました

在園児も含め、10名のお友達が来てくれました

飯田でもコロナ陽性者が増え

学級閉鎖も相次いでいます

長野の陽性者増加スピードは全国のトップスリーに入るとか!?


究極の感染対策は教会学校を行わないことかもしれませんが

神様がそれを望まれるとは思えません

子どもも大人もお互いに気遣いながら

神様の愛のもとに集って参りましょう





紙皿を使った秋のリース
みんなチャーミングに仕上げました




9時30分に集まって、まず礼拝です
自分たちで聖書を開き、お祈りも献金もちゃんとします
工作ばかりしているわけではありませんよ(^▽^)
↑たまには教会学校らしい写真も一枚

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