2020年8月3日月曜日

五千の罪人の給食(日曜のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2020年8月2日)
イザヤ書55:3-4 ローマ9:3-5 マタイによる福音書14:13-21

 本日読みました福音書の箇所は「五千人の給食」と呼ばれ、4つの福音書全てに記されている有名な出来事です。この話には前段階があります。マタイによる福音書は、五千人の給食の始まりを、こう記しています。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」

 「これを聞くと」とは何かと1パージ遡ると、「洗礼者ヨハネ、殺される」と書かれています。洗礼者ヨハネは、ヘロデ王一族の不道徳を非難して捕らえられていました。その彼がついに処刑されたというのです。
 イエス様は、ヨハネの弟子たちからこの出来事を聞いて、人里離れた場所へと向かおうとなさいましたが、イエス様のこの時の行動について、後世の学者たちは様々な解釈を試みました。イエス様は権力を恐れて逃げた、という解釈もあります。しかしイエス様はそもそもご自分が十字架によって死ぬことをご存知な方ですから、死を恐れて逃げた、とは考えにくいのです。見方を変えれば、イエス様は何があろうと、今この時点で死ぬわけには行かないのです。そこで一時的に身を隠そうと退かれたのでしょう。

 ですが、群衆はイエス様を必死になって追います。民衆はヨハネの死を知り、不安と怒りの中、新しい導き手を求めました。彼らがイエス様を追ったのはそのような状況の中だったのです。
 21節には女と子どもを別にして男が五千人ほど、と書かれていますので、イエス様を見つけ、追いかけたのは、男性五千人に加えて女性と子供、合わせて2万人ほどいたのではないか、と言われています。あえて女性と子どもを別に数えているのは、血気盛んな男性が五千人いた、という意味でしょう。不道徳な権力者を倒すためなら兵士になろう、と思う男たちが五千人いたと考えられます。

 しかし、イエス様ご自身が争いを望んでおられないのは、福音書記者であるマタイはよく知っていました。イスラエルの人々が、血を流しても革命を起こしたいと求める声とイエス様の思いとが食い違っていることをマタイは知っていたのです。
 彼らは勇敢に戦うものこそ神様に愛される資格があると思い込んでいて、情けない弱虫が無条件に愛されているなどとは思いもしません。こそれはイエス様の思いと正反対なのです。
 しかしイエス様は、この群衆を深く憐み、その中にいた弱り果てた病人をいやされます。そして人々に向かって、神の平和が来ることや、神の愛が注がれている事を繰り返し繰り返し、お話しされました。先ほどまで、一人静かに神様と語らい、祈りの時間を持とうとされていたのに、いざこうした人々を目の当たりにすると、放っておくことはお出来にならなかたのです。

 夕方になり、弟子たちは群衆を解散させ、各自で村へ食べ物を買いに行かせるのが良いだろう、とイエス様に提案します。
 ところがイエス様は、弟子たちがこの2万人の群衆の食事の面倒を見るように、と言われるのです。弟子たちは、自分達には、パン5つと二匹の魚しかない、無理だ、と答えます。もちろんこれは常識的な答えです。しかし、彼らはこれがイエス様のご命令なのだ、と気づくべきでした。

 イエス様はかつて悪魔から「石をパンに変えたらどうか」と誘惑され、拒まれました。ご自分のためには、奇跡の力をお持ちいにならなかったイエス様が、ここで食べ物を増やす奇跡をなさったのです。
 ここには、神様に愛されている私たちがまごころをもって捧げるなら、小さな業や捧げも出会っても神様は喜んで豊かに豊かに用いて下さることが示されています。イエス様の人々を思う愛はこれほどまでに深かったのです。
 ただ、この五千人の人々も弟子たちも、イエス様が十字架にかかるその道で、イエス様を裏切り、見捨て逃げてしまうのです。イエス様はそれを見通しておられたはずです。ここにイエス様ご自身の深い孤独がありました。イエス様は注いでも注いでも穴の空いたバケツのように底から抜けてしまうような思いをなさったたことでしょう。
 それでも、罪人を救うという神様の目的が実現するために、ご自分の目の前の人々が決して優等生になり得ないとわかっていても、空腹のまま去らせることができないほどに、慈しまれたのです。

 たとえ今、彼らが罪人であったとしても、また、ただ目先の飢えを満たすことや病の癒しを望むだけであったとしても、そういった人々と関わり続けることにイエス様の目的があったのです。罪人を救う、どんな罪人をも救うという大きな目的を持っておられたからです。
 人の目にどれほど徒労に映ることであっても、五千人の罪人たちは、イエス様にとってかけがえのない愛の対象だったのです。

 五千人の給食は五千の罪人の給食でもあります。ここにいる私たちも、ありとあらゆる罪を犯しつつ、人生を歩むものです。それでも私たちはイエス様の愛に触れて、満たされた愛の中に生きることができます。私たちはイエス様の示される道を共に歩き、この場に人々を招き続けて参りましょう。


道沿いの掲示板の中に
新しいレゴ作品を入れました
前回の続編
「飛んでったバナナ」
船長さんがバナナの島に
上陸しようとしているようです

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