創世記1章1-2章4a節(1) Ⅱコリント13章11-13節(342)
マタイ福音書 28章16-20節(60)
本日読みました福音書は、全ての使命を成し遂げたイエス様が、天国にお帰りになる時の出来事を記録しています。11人の弟子たちがイエス様に指定された山に登り、イエス様から最後のメッセージを受け取るのです。かつての12弟子のうち、ユダはイエス様を裏切った後自殺していますが、残りの11人は誰も脱落することなくここにやって来たのです。
言い換えれば、イエス様の十字架の絶望と復活の喜びを知る11名がここに集い、イエス様から「すべての民を私の弟子にしなさい」と命令を受けたのです。これがいわゆる「大宣教命令」と言われる御言葉です。有名な言葉なので、覚えておいていただければと思います。
しかしこの御言葉を受ける直前、興味深いことが記されています。弟子たちが山の上でイエス様にお会いした時「ひれ伏す者もいれば疑う者もいた」とはっきり書かれているのです。その人物は何を疑ったのでしょう。
ある学者の説によれば、彼はこの期に及んでもまだ人間の常識に縛られていて、目の前におられるのが本当に復活したイエス様なのか、自分がイエス様に蘇ってほしいと願うあまり夢や幻を見ているのか、と疑ったのだろう、と説明しています。
何度イエス様にお会いしても、心の底から復活を受け入れることができない、それほどまでに復活の出来事は信じ難いことなのだ、と書かれていました。確かになるほど、と思います。人間が自分だけの力でイエス様の復活を信じることができないからこそ、神様からの、特に聖霊なる神からの働きかけが必要なのです。
この「疑う」という言葉には「誤解する」という意味も含まれるそうです。何を誤解をしていると言うと、自分と神様との関係です。神様はおられる、と信じているとのと、その神様が自分に強く働きかけてくださると信じているのとでは、全くと言っていいほど違うのです。
たとえば、道路にある信号機。信号機がある、と知っているだけでは、信号機は役目を成しません。信号機に示される青、赤、黄色を見て、その意味を認識して、行動に活かして事故を防いでこそ、信号機を知っている、と言えるのです。
ここにいる私たちは「神様はおられる」と信じ、祈りと賛美を捧げます。しかし本当の意味で自分は神様に生かされている存在だと信じることができているでしょうか。「神様が私を愛しているのなら、こんな辛い目に遭うはずがない」「神様はおられることは知っているが、私の人生に関わってくださっているようには感じられない」そんなふうに思ったことはないでしょうか。
しかし聖書を謙虚に読むならば、そうした私たちの考えが神様に対する誤解であることがはっきりとわかるのです。
イエス様の復活がどれほど信じ難いことで、しばしば疑いが生じるにしても、あるいは神様は自分などどうでも良いのだ、というやけっぱちな思いが生じるにしても、神様ご自身はそのような人間の弱い心ごと受け止めていてくださいます。そして私たちをご自身の御用のために用いてくださるのです。あなたの過去がどのようなものであっても、それは神様の御用をなすために必要な道だったのだ、と聖書は記しています。不信仰に生きてきた過去も、キリスト者を迫害した過去も、神様によってプラスに変えられた例は聖書にぎっしりと詰め込まれています。
ただ、こんなふうに神様から語りかけられても、私たちはなかなか「はいそうですか」と信じることができず、過去の過ちを引きずっているのです。失敗や後悔、誰かから傷つけてられた心の傷、年齢を重ねて若い時のようにはできなくなった悔しさ。そんなことが頭の中を駆け巡り、礼拝説教で「神様の御用の為に働きましょう」と何度聞いても、自分のこととしてピンとこなくなってしまうのです。
それは何もここにおられる皆さんを責めているわけではありません。そのような状況の中にいるのは、もしかしたら、今、生きている世界中のクリスチャン達も同じ状況と言えるかもしれないからです。
キリスト教は世界三代宗教のトップ人口を誇りますが、近年世界に及ぼす影響力が落ちていると感じています。ローマ・カトリックの教皇がどんなに正当な発言をしても、それを受け入れて自分達の政治や日常の行いに生かそうとする人々はほんの一握りで、今もキリスト教国と呼ばれる国同士で争いが続いています。そんなこともあって、クリスチャン人口の少ない日本ではますます伝道意欲が削がれてしまう傾向にもあるのです。それを自覚した上で、私たちは一人ひとりがきちんと考え、今自分が何をなすべきか、神様と向き合っていく必要があるのです。
私たちは今、この世の慣習や考え方の真っ只中にあって、神様の宮を建てようとしています。資金について思い巡らすたびに、どこかの金持ちが一括でポンとお金を出してないものか、とか宝くじが当たらないだろうか、とかなんとか楽をして資金を手に入れる方法はないだろうかと、そんな都合の良い奇跡は起きないと知っていても、ついつい思い描いてしまいます。
私たちがどんなに逃げ腰になっていても、神様の宣教命令は響いており、私たちはこのタイミングで神様に押し出されたのです。それはこのタイミングでなければならないという、神様のお考えがあるのです。
本日最初に読んでいただきました創世記の出来事を、よくよく振り返って見てみますと、私たち人間も含めて全ての生き物は、神様の言葉から造られたことが記されています。全ての生き物は、神様の言葉を聞くことが一番の命の元で、生きる力なのです。その神様が私たちに「宣教しなさい」「できる限り多くの人々に神さの言葉を伝えなさい」と言っておられるのです。
昨日は月一回の土曜学校の日でした。天地創造のお話を礼拝で聞いた後、たくさんいただいた瓢箪を使っててんとう虫のランプつくりです。私たち人間が「何かを作りたい」という思いを持っているのは創造好きの神様が与えてくださった特性なんだろうな、と思うのです(^▽^)
言い換えれば、イエス様の十字架の絶望と復活の喜びを知る11名がここに集い、イエス様から「すべての民を私の弟子にしなさい」と命令を受けたのです。これがいわゆる「大宣教命令」と言われる御言葉です。有名な言葉なので、覚えておいていただければと思います。
しかしこの御言葉を受ける直前、興味深いことが記されています。弟子たちが山の上でイエス様にお会いした時「ひれ伏す者もいれば疑う者もいた」とはっきり書かれているのです。その人物は何を疑ったのでしょう。
ある学者の説によれば、彼はこの期に及んでもまだ人間の常識に縛られていて、目の前におられるのが本当に復活したイエス様なのか、自分がイエス様に蘇ってほしいと願うあまり夢や幻を見ているのか、と疑ったのだろう、と説明しています。
何度イエス様にお会いしても、心の底から復活を受け入れることができない、それほどまでに復活の出来事は信じ難いことなのだ、と書かれていました。確かになるほど、と思います。人間が自分だけの力でイエス様の復活を信じることができないからこそ、神様からの、特に聖霊なる神からの働きかけが必要なのです。
この「疑う」という言葉には「誤解する」という意味も含まれるそうです。何を誤解をしていると言うと、自分と神様との関係です。神様はおられる、と信じているとのと、その神様が自分に強く働きかけてくださると信じているのとでは、全くと言っていいほど違うのです。
たとえば、道路にある信号機。信号機がある、と知っているだけでは、信号機は役目を成しません。信号機に示される青、赤、黄色を見て、その意味を認識して、行動に活かして事故を防いでこそ、信号機を知っている、と言えるのです。
ここにいる私たちは「神様はおられる」と信じ、祈りと賛美を捧げます。しかし本当の意味で自分は神様に生かされている存在だと信じることができているでしょうか。「神様が私を愛しているのなら、こんな辛い目に遭うはずがない」「神様はおられることは知っているが、私の人生に関わってくださっているようには感じられない」そんなふうに思ったことはないでしょうか。
しかし聖書を謙虚に読むならば、そうした私たちの考えが神様に対する誤解であることがはっきりとわかるのです。
イエス様の復活がどれほど信じ難いことで、しばしば疑いが生じるにしても、あるいは神様は自分などどうでも良いのだ、というやけっぱちな思いが生じるにしても、神様ご自身はそのような人間の弱い心ごと受け止めていてくださいます。そして私たちをご自身の御用のために用いてくださるのです。あなたの過去がどのようなものであっても、それは神様の御用をなすために必要な道だったのだ、と聖書は記しています。不信仰に生きてきた過去も、キリスト者を迫害した過去も、神様によってプラスに変えられた例は聖書にぎっしりと詰め込まれています。
ただ、こんなふうに神様から語りかけられても、私たちはなかなか「はいそうですか」と信じることができず、過去の過ちを引きずっているのです。失敗や後悔、誰かから傷つけてられた心の傷、年齢を重ねて若い時のようにはできなくなった悔しさ。そんなことが頭の中を駆け巡り、礼拝説教で「神様の御用の為に働きましょう」と何度聞いても、自分のこととしてピンとこなくなってしまうのです。
それは何もここにおられる皆さんを責めているわけではありません。そのような状況の中にいるのは、もしかしたら、今、生きている世界中のクリスチャン達も同じ状況と言えるかもしれないからです。
キリスト教は世界三代宗教のトップ人口を誇りますが、近年世界に及ぼす影響力が落ちていると感じています。ローマ・カトリックの教皇がどんなに正当な発言をしても、それを受け入れて自分達の政治や日常の行いに生かそうとする人々はほんの一握りで、今もキリスト教国と呼ばれる国同士で争いが続いています。そんなこともあって、クリスチャン人口の少ない日本ではますます伝道意欲が削がれてしまう傾向にもあるのです。それを自覚した上で、私たちは一人ひとりがきちんと考え、今自分が何をなすべきか、神様と向き合っていく必要があるのです。
私たちは今、この世の慣習や考え方の真っ只中にあって、神様の宮を建てようとしています。資金について思い巡らすたびに、どこかの金持ちが一括でポンとお金を出してないものか、とか宝くじが当たらないだろうか、とかなんとか楽をして資金を手に入れる方法はないだろうかと、そんな都合の良い奇跡は起きないと知っていても、ついつい思い描いてしまいます。
私たちがどんなに逃げ腰になっていても、神様の宣教命令は響いており、私たちはこのタイミングで神様に押し出されたのです。それはこのタイミングでなければならないという、神様のお考えがあるのです。
本日最初に読んでいただきました創世記の出来事を、よくよく振り返って見てみますと、私たち人間も含めて全ての生き物は、神様の言葉から造られたことが記されています。全ての生き物は、神様の言葉を聞くことが一番の命の元で、生きる力なのです。その神様が私たちに「宣教しなさい」「できる限り多くの人々に神さの言葉を伝えなさい」と言っておられるのです。
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