復活祭・職員就任式Ⅱ・聖餐式(白) (2019年4月21日)
出エジプト15:1-11 コリⅠ 15:21-28 ルカ24:1-12
イースターおめでとうございます!
推理小説やドラマの手法の一つに、被害者が犯人の手掛かりを残す「ダィイングメッセージ」があります。犯人の頭文字であったり、握った手の中に残されたボタンであったり、死の間際に呟いた言葉であったりします。それがはっきりと犯人を指し示すなら事件は即解決ですが、それでは物語にならないので、敏腕刑事なり探偵なりが登場して、亡くなった人はなぜこのメッセージを残したのか、と推理していくわけです。
福音書にはイエス様が十字架の上で息をひきとるまでに語られた言葉がマルコ、ルカ、ヨハネ合わせて7つあり、それらは「十字架上の7つの言葉」と呼ばれています。これらは、いわばイエス様の愛に満ちたダイイングメッセージなのです。
7つの御言葉は、ルカ福音書23章34節の「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」から始まって、同じくルカの福音書23章46節「父よ、私の霊をあなたの御手に委ねます」で終わっています。
当時イエス様の身近にいた人々からみれば、イエス様は人気絶頂の座から転がり落ちて、不当な裁判の末に殺されたわけです。イエス様を愛する人々は涙を流し、恐怖と絶望に顔を引きつらせていました。ところがイエス様ご自身は、恨み言を呟くどころか、苦しい息の下でも気高い言葉を口にしておられます。
そばで立ち会ってイエス様の言葉を耳にした兵隊たちは、イエス様のあまりにも立派な御最後に、「こんなことができるのは、この人に本当に罪がなかったからに違いない」と確信するのです。それで、マタイ福音書とマルコ福音書では百人隊長は「本当にこの人は神の子だった」とつぶやいています。
一方、イエス様の弟子たちは、特にほとんどの男性の弟子たちは、自分たちも逮捕されるかもしれないと恐れ、とっくに逃げ去っていました。彼らは大切な十字架上のメッセージを聞き漏らしてしまったのです。
また、女性の弟子たちも、イエス様が息をひきとるまでメッセージをはっきり聞き取ることができるほどには十字架に近づくことは許可されなかったようです。ですからイエス様を愛していた人々は、ただただ恐れ悲しみながら家に帰り、全ての希望を失って、閉じこもるしかなかったのです。
三日目の朝、まだ暗いうちに、女性の弟子たちは、イエス様のご遺体に塗るための香料を準備して墓に向かいました。彼女達の心の中には「辛い亡くなり方をされたイエス様の魂を慰めて差し上げなければ」という思いがあったのでしょう。「おかわいそうに」という気持ちに突き動かされていたと言えます。
そんな彼女達を御使いが待ち受けていて、「あのかたは三日目に復活されることになっていると言われていたでしょう」と告げます。それを聞いた彼女達は、イエス様の言葉を思い出し、大急ぎで男性の弟子達にこのことを知らせたのでした。
一方、墓に近づきもしなかった男性の弟子達は、イエス様は相当な恨みを抱いていたに違いないと勘違いしていました。イエス様はさぞ無念だったろう、この世に恨みを残して亡くなられただろう、お守りすることのできなかった自分達のこともさぞ恨んでおられるだろう。そんな風に思っていたのです。ですから、この少し後、イエス様が彼らの前に突然現れた時には、本気で亡霊だと思い込み、言葉は悪いですが「化けて出た!」と思い込んで恐れおののいたのです。
それでも女性達から復活の報告があった時、ペトロとヨハネだけは墓に走ります。しかしこの時はイエス様にも御使いにも会うことはできませんでした。ペトロは、自分の命を惜しんでイエス様を見捨て、みすみす死なせてしまったことに強い後悔とを感じており、自分は決して赦されない、という思いを抱いていました。
しかしルカ福音書には、最後の晩餐の折、「鶏が鳴く前にペトロがイエス様を3度否定する」と予告しつつも「あなたの信仰がなくならないように祈ったから、立ち直ったら仲間も力づけてやりなさい」という、力強く温かいお言葉が語られています。
ペトロだけではなく、すべての人間は、自分の力だけで神様に赦してもらうために何かができるということは決してありません。神様から赦しを勝ち取るためには人間の行うどんな苦行も全く役に立たないのです。ただ、イエス様の「赦しているよ」というお言葉を信じるだけなのです。
イエス様の十字架上でのダイイングメッセージは、犯人を指し示す暗号ではありません。私は誰も犯人に定めない、私は全て赦している、という愛のメッセージなのです。ピラトも、祭司長も、イスカリオテのユダも、ペトロも、そして私たち全てがそこに含まれるのです。
私たちの生きているこの世では、数え切れないほどの苦難があります。誰かに裏切られ、なんとかして憎い相手に一泡吹かせてやりたいと思い、一方でクリスチャンなのにそんな思いを抱いていいのかと苦しむ。しかし抑えても抑えても憎しみが湧き上がってきて、忘れることも赦すこともできない。
自分はその程度の人間であり、神の愛に値しない、と思う時、私たちはイエス様に頼るのです。こんな私でも受け入れ、愛してくださいますか?赦してくださいますか?と問いかけるのです。
自分自身に絶望して涙を流し問いかける私たちに、イエス様は十字架の上からあの7つのみ言葉の一つを用いて答えてくださいます。「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」この御言葉によって、イエス様と共にいる場所は、この世においても楽園なのだと、私たちは知るのです。
イースターは、ただ単にイエス様が死んで復活されたことを祝うだけの祝日ではありません。私たちを打ちのめし打ち倒すこの世の恨みや妬み、苦しみの全てが、イエス・キリストによって克服されたことを知り、祝う日なのです。
イースターおめでとうございます。イースターの喜びをあなたとともに。
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