ヘブライ人への手紙5章7-10節 マルコによる福音書10章35-45節
イエス様は主にガリラヤ湖近辺で奇跡の業を行われました。奇跡で人々を癒やされるたび、触れ回らないようにと念を押されました。しかし癒された人々は喜び、イエス様のすごさを広めて回りました。その評判によって、イエス様の存在が特別であることがガリラヤ以外の地域にも急速に広まって行きました。
しかし、イエス様のあまりにも大きな奇跡の力は、弟子たちの心に変化を与えました。弟子たちはイエス様を尊敬し、愛していましたが、イエス様のお力に便乗して、自分も地位や権力を手に入れようと思うようになってしまったのです。
イエス様はそれをもちろん見抜いておられました。ご自分が十字架にかかる予告をなさった後、「仕えるものになりなさい」と弟子達に何度も何度も言わなくてはならないほどでした。ところが、そのような状況の中でゼベダイの子ヤコブとヨハネは「イエス様が偉くなったら側近にしてほしい」と願いを申し出たのです。
弟のヨハネは、後に福音書を記し、イエス様の教えを正しく伝え、初期のキリスト教会に大きな影響を与えた人物でしたが、この段階ではまだ、全くといっていいほど野心の塊でした。他の福音書では、この二人の母親までが登場し、息子たちの出世をお願いをします。もし彼らがイエス様を神様だとしっかりと認識していたなら、この時このような願いはしなかったことでしょう。
神様に対して願い事を申し上げる時、よく引き合いに出されるのが、イエス様の時代から1000年近くも前のソロモン王の祈りです。列王記上の3章です。少し長いですが引用します。
「わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」
神様はソロモン王の、謙虚で私利私欲を捨てて神の民のことだけを思う願いを大いにお喜びになり、国を治めるための知恵に加えて、富と長寿をもお与えになりました。ソロモン王の統治時代はイスラエルの歴史の中で最も繁栄しました。
ヤコブとヨハネは、ソロモン王が神に祈ったこの記述を知らなかったはずはありません。しかしそれはそれ、これはこれ。世の人と同様に出世したいという思いをイエス様に願い出てしまうのです。
しかしそんな二人をイエス様は拒絶することなく、蔑む事もなく、実に丁寧に言葉をかけ、彼らの心得違いをただそうとなさいました。イエス様はご自分に向けられる願いの言葉がどれほどピントのずれたものであっても、聞き流すことはなさいません。その願いの奥底に込められている、本人がうまく言い表すことのできない想いさえも汲み取ってくださるのです。
この二人の心の奥にある願いは、「イエス様のようになりたい」でした。所々勘違いをしているところがありますが、「この方唯一無二の力を持っていて、この国を救ってくださるに違いない」という直感は本物だったのです。
しかしイエス様のお返事は、彼らには全く理解できないものでした。「だめだ」でもなく「いいよ」でもなく「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」というものでした。ここでイエス様の言われた「杯」や「洗礼」はイエス様がこれからお受けになる苦しみを象徴する言葉です。
イエス様は十字架にかかる前の夜、ゲツセマネの園で父なる神様に向かって「この杯を私から取り除けてください。しかし私の願うことではなく、御心に敵うことが行われますように」と祈っておられます。この「杯」とははいうまでもなく十字架の苦難を表しています。また、洗礼は「一度死んで神とともに蘇る」ことを表しています。しかしこの時ヨハネとヤコブは何もわからないまま勢いで「できます」と言ってしまったのでしょう。
イエス様だけは彼らがこの後迫害や殉教の道を歩むことを知っておられましたから「確かにあなたたちはそうなる」と慈愛に満ちた目で彼らを見つめられたことでしょう。その姿を他の弟子たちが誤解して腹を立てたのだと思います。
十字架を目前にしてもなお、肝心なところがわかっていない弟子たちでしたが、イエス様はそのような弟子達の勘違いした野心や見当違いの情熱さえも受け止められたことがわかります。そして「弟子たちのその一途な性質はのちに必ず宣教の役に立つ」と確信しておられたのです。
私たちの毎日は、ある意味私利私欲や、名誉への欲望との戦いといっても良いかもしれません。教会のため、幼稚園に集う子どもたちのため、宣教のため、自分の時間や才能を注ぎ込む私たちですが、そこに虚栄心や他の組織や教会と張り合う心が全くないと言えば嘘になるでしょう。イエス様のために必死で取り組んでいるようで、心のどこかで誰かから評価されることを求める気持ちは、私たちから完全に取り去ることはできません。
イエス様は私たちの不完全さを知り抜いた上で受け入れてくださっています。だからこそ、イエス様の言われる「仕える者になりなさい」というみ言葉を忘れてはならないのです。
キリストに仕える私たちは、世の人々から厳しい批判を受けたり、逆に持ち上げられたりすることに心を乱されず、常にキリストが共におられることを信じて、キリストを自らの手本として「仕える者」であり続けることを自分の目標に据えましょう。
16日(土)は飯田ルーテル幼稚園(こども園)の
運動会でした
コロナの影響で予定よりも開催が遅くなりましたが
子どもたちは元気いっぱい
先生たちも元気いっぱい
無事に終了することが出来ました
牧師は開会のお祈り&音響全般担当
社会人時代の仕事の知識が生かされていて感謝です
運動会の写真です
順不同でご紹介
親子競技の大玉運びも みんな上手に出来ました |
ダンスの時はシャッターチャンス 保護者の皆さんはお子さんを撮影しやすい場所に移動 |
Uber Eats(ウーバーイーツ)を模した ルーテルイーツ競技 でも、ルーテルとはマルチン・ルターのことで Lutherと綴ります どう転んでも始まりは「 L」なんです(^^;) 担任の先生ごめんなさい もっと早く言えばよかったね |
運動会の花形競技は今も昔もやっぱりリレーかな |
トンネルをくぐる動きはとってもスムーズでした |
運動会当日は暑いくらいでしたが
本日はグッと気温が低くなりました
みなさま気をつけてお過ごしください
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