聖霊降臨後第8主日礼拝(2021年7月18日)
詩編23編 マルコによる福音書6章30-34節
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」で始まる詩編23編は、欧米の映画やドラマでは良く用いられていますし、日本に暮らす私たちキリスト者にも馴染みのある聖書箇所だと思います。美しく心に響き、渇いた魂を慰め、逆境に置かれた信仰者を励まします。この詩は、羊飼いと羊のイメージを通して、神の家で過ごす憐れみと恵みに満ちた日々を強い信念を持って期待し、歌い上げているのです。
作者は、イスラエルの英雄、ダビデ王とされています。イエス様の先祖の系図に名を連ねる人物です。ダビデは王様となる以前、ベツレヘムの羊飼いの家に生まれ、羊飼いとして生きてきました。彼は幼い時から、羊を守るためなら野獣とも命がけで戦い、慈しんで世話をしてきました。羊飼いは強靭な体だけでなく、どこに餌となる青草が生え、どこに飲み水があるかという知識も必要です。一匹一匹の名前や性格を知り尽くし、愛と威厳を持って羊たちを導くのです。
ダビデの生涯は波乱に満ちていました。ダビデがまだほんの少年であった時、神様は彼がいずれイスラエルの王となるよう選ばれます。やがて勇ましい戦士となったダビデはイスラエル初代の王様サウル王の次女の娘婿となりますが、サウル王の嫉妬によって命を狙われ、ユダの荒れ野をさまよい、何度も命を失いかけました。それでもダビデの方からはサウル王の命を狙おうとしなかったことは聖書の中で高く評価されています。
やがてサウル王が他民族との戦いで戦死したことにより、ダビデの放浪は終わり、イスラエル王座に就きます。すると彼は戦に連戦連勝、周辺諸国を従えてイスラエルを発展させ、良い政治を行いました。ただ残念なことに、たくさんの妻や子がいたため、王位継承は揉めに揉めました。
さらには人妻と不倫の関係に陥り、彼女の妊娠をごまかそうとした挙句、その夫を戦地に送り込んで戦死させたことすらありました。さすがにこの時は神様も預言者ナタンを通してダビデを叱りつけました。
その時預言者は「貧しい人がたった一匹の羊を自分の子供のように慈しんでいたが、ある金持ちが客をもてなすのに自分の羊を提供するのを惜しみ、貧しい人の羊を取り上げて殺し、自分の料理に使った」と話します。ダビデはそんな身勝手な金持ちは死刑だと憤りますが、「その金持ちとはあなたのことです」と指摘され、自分の犯した罪の深さに気づきます。彼は深く悔い改め、神の憐れみを求めました。その心情を詩編51編に綴っていますので、お時間のある時、読んでみてください。
このように、ダビデ王という人物はざっくりいうならば、神に愛され、彼自身も信仰心が篤く、才能にあふれる人物ではあったけれど、欠点もまた多かった、ということになるでしょう。
話を詩編23編に戻しましょう。ダビデは自分自身の欠点を知り、それでも「あなたがわたしと共にいてくださる」と歌い上げました。神と人の関係を、自分が熟知している羊飼いと羊の結びつきにたとえたのです。羊は羊飼いとの関わりが深くなれば深くなるほど、羊飼いに全幅の信頼を寄せ、自分の命をゆだねます。その時、自分は自分が羊飼いにとって役に立つ羊だろうか?などと考えません。
羊が生きていくためには、自分を最も愛しているのが誰なのかを知ることが何より大切なのです。私のために戦ってくれる羊飼いがいる。この羊の性質を引用しながら、ダビデは、自分のダメさ加減も全て受け入れ、愛し、守ってくれる主がいる、神がいる、と私たちに伝えてくれたのです。
詩編23編がキリスト者に愛されるのは、ダビデのこの思いに共感するからでしょう。キリスト教信仰に生きる私たちにとって、最も安らげる道は、イエス様に愛されていると知ることです。何か特別な才能があるとか、一生暮らしていける財産を持っているとかいうことではなく、今のこの私を神ご自身が、イエス様が憐れみ、愛し、導き、守ってくださり、溢れんばかりの恵みを与えてくださる驚きを、感謝を持って受け止め、歩んでいくことなのです。ダビデは、23編の終わりに「主の家にわたしは帰り」と記しています。「私は主の家にとこしえに住む」それはダビデにとって最も幸せなイメージだったことでしょう。
そんなダビデは、王様としてひとまず国が安定してきたと見るや、神様のために豪華な神殿を建てることを計画します。しかし神様はそれを止め、神殿建築は次の王、ダビデの息子ソロモンに譲るように、とお命じになります。神はダビデにこのように言われました。「なぜ私のためにレバノン杉の家を建てないのか、といったことがあろうか」、つまり「あなたに立派な神殿を要求したことはない」と言われたのです。そして「あなたがどこに行こうとも、私は共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断つ」と宣言してくださいました。
ダビデはこの出来事を通して、主に向かって祈るならば、その場所がどおであろうと、主は耳を傾け、答えてくださることを改めて確信したのです。この出来事から私たちは、たとえ神殿や礼拝堂にいなくても、神は祈りを聞いてくださる、という信仰を得ることができるのです。
今、私たちは新しい礼拝堂を作る使命を委ねられています。どうしても資金のことが頭をよぎりますし、迷いや悩みがたくさん生まれます。だからこそ、私たちは主が共にいてくださり、キリストご自身がわたしたちを慈しんでくださることを繰り返し思い出し、自分たちにできる最善を尽くして計画を進めてまいりましょう。
私たちのすべてをご存知であるイエス様の憐れみを受けつつ、安らぎを得ながら、歩んでいこうではありませんか。
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