マタイによる福音書第11章25節-30節、2017年7月30日(聖霊降臨際後第8主日礼拝―緑―)、イザヤ書第40章26節-31節、ローマの信徒への手紙第7章15節-25節、讃美唱119/11(詩編第119編129節-136節)
説教「無力な者にあらわれる神さま」(マタイ福音書第11章25節~30節)
先週までは、主イエスによる12弟子たちの宣教への派遣の記事が与えられていました。今日、与えられている福音は、その主イエスが、御自分も周りのガリラヤの町々に宣教なさり、ベトサイダも、御自分の町であったカファルナウムも、主イエスの告げ知らせた福音、神の国の訪れの使信によっても、悔い改めなかった、まさにその時に、「それに答えて言われた」お言葉であり、祈りの言葉、あるいは執り成しの祈りで始まっているものであります。遣わされていた弟子たちも、みもとに戻って、そばで、この祈りと、自分たちへの励ましと慰めのみ言葉を間近に聞いていて、このような形となって、聖書に残されているのでしょうか。
主は、周りの町々が、主のみ言葉を受け入れず、拒まれたとき、カファルナウムよ、なんじは天にまで上げられようと思うのか、そうではない、お前は、陰府にまでくだされるのであり、終わりの時には、あのソドムのほうがお前よりは耐え易いであろうとまで言われました。
その時に、主は、天地の主、父に向かって、ほめたたえる祈りをなさる。ご自分が、イスラエルの民によって、また、特にファリサイ派や律法学者たちによって、拒まれ反対されて終わったときに、嘆いたり怒ったりされるのではなく、感謝の祈り、あるいは信仰告白の祈りをなさるのであります。そして、言われました。「私は、あなたをほめたたえます、なぜなら、あなたは、これらのことを、知恵ある者や賢い者たちにはお隠しになって、幼子のような者におあらわしになりました」と。「幼子のような者たち」と訳されていますが、もとの文は、「幼子たち」そのものの意味の言葉です。それは、遣わされて行って戻って来ていたであろう弟子たち、あるいは彼らの使信を受け入れた小さな者たちのことでしょう。そして、主イエスによる救いの福音をお隠しになった知恵ある者や賢い者とは、イスラエルの民であり、特にその当時宗教的リーダーでもあったファリサイ派など、力ある者たちだったでありましょう。
そして、それは、今でも同様なことが言えるのではないでしょうか。パウロが言いますように、教会に入れられた者には、もともと知恵ある者や家柄のよい者は多くなく、また世の知恵は、十字架の言葉を愚かなものとみなしているのであります。天の父は、無知、無学、無力な者に、またそのように自分を痛感し、自分を父の憐みに投げ出すときに、その祈りに答えられるお方である。主イエスは、それをご存じで、ここで、私共に代わって、感謝の執り成しの祈りをなさっておられるのであります。そして、このように、あなたのご好意は、あなたのみ前に成りましたと告白されているのであります。世の賢い者に、救いの計画を隠して、世の愚かな者、取るに足らない者にご自分をお顕しになる。
そして、すべてのことが、自分にゆだねられているのであり、子を知る者は父以外にはなく、また、父を知る者は、子と子が知るようになることを欲する者たち以外にはないと祈られています。
主イエスだけが、また、御自分がそうなることを望んで選ばれた者たちのみが、父のご計画を知るのであり、父である神のみが、主イエスを遣わされた意味を知っておられ、両者の間に、他の者たちには認識できない深い、親密な関係が出来上がっていると、むしろ私どものために感謝して祈っておられる。
そして、主は、ここで、私共すべてに招きの不思議なみ言葉を語りかけられる。「すべての疲れている者、そして重荷を負っている者は私のもとに来るがいい」と。重荷を負って疲れていないような者はいるのでしょうか。私たち、キリストの弟子は、どうでしょうか。このお方は、すべてのそのような者は、私のもとに来なさい、そうすれば、私があなた方を休ませてあげようといわれるのです。ルターはこれを、私はあなた方を元気づけてあげようと訳しました。私たちは何によって疲れ果て、重荷を負って苦しんでいるのでしょうか。主イエスのところに行けば、私たちの不安や試練やおののきといったものがなくなると魔法のような言葉を言われているのでしょうか。
主イエスは、私のところに来なさい、私は柔和な者であり、心低い者でありうからといわれます。そして、私の軛を、あなた方に向かって担いなさい、そして、私から学びなさいと言われる。なぜなら、私の軛は担いやすく、私の荷は軽いからであるというのです。主イエスの言われる私の軛、私から学べ、私の軛、私の荷とは何でしょうか。軛とは本来、圧迫する苦しいものでありましょう。ところが、主イエスの軛は、心地よい、親切なものだといわれる。主が私たちのために負われる、十字架と苦難の軛を、私たちも負うとき、すでにそれは、軽いもの、楽なものになっている。主の軛とは、そのような優しい、親切なものであり、主の荷は、既に私共にとっては軽いもの、恵みに満ちたものとされているのであります。 このお方のもとに来る人はすべて、このお方から学び、弟子となり、その魂に安らぎ、元気、まことの休みを見出すと、主はここに約束されているのであります。そして、弟子とされている私共は、このお方の今日のみ言葉へと絶えず招かれ、呼び戻されるのであります。このお方と共に、このお方の軛を負い、その荷を担うときにのみ、まことの元気が与えられ、まことの生を歩んでいけるのであります。
アーメン。
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