主の変容礼拝・役員就任式(2024年2月11日)(白)
列王下 2章1-12節(577)
Ⅱコリントの信徒への手紙 4章3-6節(329)
マルコによる福音書 9章2-9節(78)
説教 朝比奈晴朗
本日読みました福音書には、モーセとエリヤがイエス様と弟子の前に現れます。福音書では「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった」と書かれていて、あまりに緊張して何を言っているのか分からなくなったようです。なんとなくペトロを見下しているような表現ですが、福音書を記したマルコ自身の主観が入っているからでしょう。
マルコは元々はイエス様を取り巻く大勢の弟子の一人に過ぎませんでしたが、失敗を繰り返しながらも、徐々にしっかりした信仰を獲得していきます。その成長過程にはイエス様の一番弟子だったペトロの指導もありました。
やがて福音書を記すまでに成長したマルコは、イエス様が白く変わられた出来事について、ペトロから詳しく聞きました。その様子を隠すことなく伝え、イエス様が神様だと確信していなかった頃の自分や、人々の迷いを、いささか滑稽な雰囲気を交えて記したのかもしれません。
実はこの出来事の起こる少し前、イエス様とペトロを含む弟子達は、フィリポ・カイサリアという場所に足を延ばしました。ここはガリラヤ湖の北端からさらに40キロほど北西にあり、ローマ帝国の影響を強く受けた贅沢な保養地でした。
そんな場所で、イエス様は弟子達に「人々は私のことを何者だと言っているか」と尋ねます。彼らが「預言者の一人」と答えると、次に「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」と問いかけます。するとペトロは「あなたはメシア、キリストです」と答えたのです。
ペトロはイエス様と暮らす内に、神様への正しい信仰なしに人々の幸せはあり得ない、間違った状況から自分達を救い出すことができるのはイエス様だけだ。ペトロは心の底からそう信じて告白したのです。
しかし、その直後イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められます。そのお言葉にはあやふやさは一切なく、確信を持って「このようになる」とおっしゃったのです。
長老、祭司長、律法学者たちはユダヤ社会の政治と宗教の指導者でしたが、偉そうに振る舞う彼らの矛盾点をイエス様が指摘して論破していく様子に、弟子たちは痛快さを覚えていたでしょう。イエス様が彼らを追い落とし、世直しをしてくれる、とも思っていたのです。それなのにイエス様は、ご自身が排斥され、捨てられると言われました。そしてそれが救い主・メシアの役割だとまで言われたのです。
イエス様は、指導者たちを中途半端に追い払っても、根本が変わらない限り同じことの繰り返しだとわかっておられました。命を奪われることを恐れず行動し、さらに復活するまでやり遂げる、とおっしゃったのです。
しかしペトロはそれが理解できず、イエス様を人々から引き離し「そんなことを教えるもんじゃありません」と諌めます。ペトロは尊敬するイエス様がこの世的な成功を成し遂げてほしいと願っていました。言い出しっぺが一番を損するようなことにはなってほしくない、余計なことは言わないでほしい、と考えたのです。
するとイエス様はペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と叱りつけます。イエス様は、やり始めたことを自分の利益を優先するあまり途中で放り投げるのは、サタンの誘惑に乗せられているのと同じことだ、と言われたのです。
ペトロは大いにショックを受けたことでしょう。しかし、イエス様はペトロを大切な弟子と認めておられました。特別なことを目撃させるために、他の二人、ヤコブとヨハネとともに山に誘われたのです。
さて、お話を「神の御子イエスの変容」に戻しましょう。2800メートル級の高い山でイエス様は真っ白い姿に変わります。その場所でイエス様を待っていたのは旧約聖書の英雄にして、すでにこの世の人ではないモーセとエリヤでした。彼らは神の国からイエス様に会いに来たのです。
彼らがイエス様と話し合ったのは、本当に十字架にかかる覚悟をお持ちですか?ということだったと思われます。「これ以上苦労するのをやめたらどうですか?側近でありながらイエス様のご計画を理解しようとしない弟子達しかいないのに、そうした人々のところに戻られるのですか?」と問いかけたのでしょう。
これは大きな分かれ道でした。イエス様は神の御子ですから、全てを放棄して天の国に帰ることもできます。しかしイエス様はご自分の変わりない決心を示すために、そのお姿をあえて3人の弟子たちにお見せになったのです。
神様は一人一人に「こう歩みなさい」と生き方を示されます。イエス様はそのお手本となって、先頭に立って成し遂げるべきことを成し遂げ、十字架の死を選び、神による復活を示されました。このお姿を知っているからこそ、私たちは神様の御心から離れた社会やこの世においても、神の言葉を伝え続けるのです。
たとえ今、上手く行かなくても、共に生きる人々を諦めることなく御心へと導いていく役割が与えられていくのです。
2月25日、韓国の中学生グループが今年も
飯田教会の礼拝に来られます。
宮田村というところに短期留学しているグループで
昨年は3年生が来てくれました
今年は1年生だそうです
ルーテルキッズバンドも張り切って
歓迎のために賛美を練習しています
日本の子どもらしさを出してみようと考えて
賛美のイントロに「アルプス一万尺」の
手遊びを入れてみました
長野県ですし、ピッタリ?(笑)
それにしてもハイスピードの「アルプス一万尺」を
メンバー最年少の幼稚園児、Iちゃんまで
サラリとこなしてしまうのです
恐るべし、今どきのお子様!
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