顕現後第3主日礼拝(2024年1月21日)
ヨナ書3章1-10節(1447)
Ⅰコリントの信徒への手紙 7章29-31節(308)
マルコによる福音書 1章14-20節(61)
本日の物語は、ガリラヤ湖の4人の漁師たちが、イエス様に招かれて弟子となる出来事です。舞台となったガリラヤ地方は昔からユダヤ人以外の人々も多く住んでおり、独特の方言もありました。さらにイエス様の時代はローマに支配されていて、伝統的なユダヤの雰囲気が感じられない場所でした。
ユダヤ人は唯一の神様への信仰を大切にする民族でしたが、ガリラヤ地方に生きる人々は、その土地柄から世俗と信仰の狭間にありました。他民族との争いに巻き込まれてきたガリラヤ人は、信仰も伝統も独特でしたし、他民族に支配される屈辱に耐えきれずに過激な独立運動を展開する「熱心党」を生み出しました。
そんなガリラヤ地方に生きる人々は、他の土地のユダヤ人たちからは軽蔑されていて、特に神殿のある中心都市エルサレムからは「異邦の町ガリラヤ」と呼ばれ、「神様から捨てられた者たちの集まる場所」というレッテルを貼られていました。
とはいえ、エルサレムで重要視されている信仰スタイルは、実際にはかなり形骸化していました。聖書の中でしばしば指摘されるように、祭司やファリサイ人たちの言いなりになっていれば、世間的には信仰的に立ち振る舞うことができました。イエス様はそのような形骸化した中心都市ではなく、信仰的脱落者の集まりとも言えるような「異邦の町ガリラヤ」を選び、伝道を開始されたのです。
この地でイエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されます。この言葉を最初に語ったのは洗礼者ヨハネでした。ヨハネは「神の国が間も無く来るから備えなさい」という呼びかけでした。しかしイエス様は、元々の言語を調べますと、もっと強い語り掛けの言葉を選んでおられます。「信じているならこっちへ一歩踏み出しなさい」というようなイメージを感じさせる言葉です。イエス様ご自身が神の国の支配者、神様そのものだからこそ、力強く言い切ることができたのです。
さて、イエス様の招きを受け入れたガリラヤの4人の漁師は、生粋のガリラヤ人です。彼らは洗礼者ヨハネの存在は当然知っていました。ヨハネに比べれば神殿の祭司たちが語る信仰が薄っぺらく見えたでしょうし、彼ら自身、自分の信仰の弱さも感じ取っていたことでしょう。
このままガリラヤで漁師として生きていていても、食うに困ることはないし、歳を取っても何か漁に関わる仕事をしていれば、一生なんとか生きていけるだろう。しかし、それでいいのだろうか。
このままでいい、という思いと、もっと信仰的に生きたいという思いが、心の中に渦巻いていました。そのモヤモヤこそがこの4人の男たちに与えられていた神様からの啓示だったのです。彼らの心ががまるで見えるかのように、イエス様は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられたのです。
イエス様のお言葉は、この4人の漁師にとって、網を捨てるほどに、また、父や雇い人、そして舟を残してでも、イエス様に従うことを「良し」と思わせました。
自分の内側に神様への、一本筋の通ったしっかりした信仰を育て、それによって自分らしく偽りなく、生きることができる。その生き方を教えてくれるのは、どこかのエリート集団などではなく、今自分の目の前にいるイエス様なのだ。そう信じたからこそ、彼らは一歩前に出てイエス様の招きを受け入れ、イエス様を信じる道へと踏み出したのです。
心のうちにある葛藤をどうしたりょいかわからない人々、そのような人々をご自分の元に招くことがイエス様の使命でもあったのです。
イエス様は、立派な神殿はあるのに、救われない人の多さ、聖書はあるのに本質を捉え損ねている人の多さ、神様を蔑ろにしてサタンに囚われたようになっているこの国の人々の有様を心から悲しまれました。
世の人々は、誤解と偏見で凝り固まり、あるいは自分を誤魔化して今の状態に満足しているふりをしています。イエス様が大声で「悔い改めて福音を信じなさい」と神の国に招かれても、素直に受け止めてはもらえません。
すべての人々が神様の思いを真正面から受け止め、神様のみ言葉が中心となる社会を築いていくには、ガリラヤの漁師のような、迷いの中にある人々をコツコツと招いていくことが必要であると、見極められたイエス様は彼らを真っ先に弟子としてスカウトされたのです。
イエス様ご自身の人生は、人の目から見て大成功とは思えません。それどころか懸命に人々に尽くした末に無実の罪で捉えられ、鞭打たれ、十字架にかかって命を落とされたのです。しかしそれはご自分が悩める人々の人生のお手本となるためでした。
何かに失敗し、怒りや妬みで、与えられた人生を棒に振ってしまいそうになる人々に向けて、それでも、神様の導きはあなたにあり、あなたもまた、神様の招きを受けてますよと伝え、その業を愛をもっておこなうなら、世界が変わることをお示しになったのです。
私たちもまた、そのようなイエス様に招かれました。私たちクリスチャンはイエス様と同じ使命を持っていて、何度挫けても、与えられた使命を投げ出さないで立ち向かっていく役割が与えられています。
私たちが迷いの中にあるからこそ、イエス様はさらに近づいてくださいます。そんなイエス様に私たちももう一歩近づき、キリストと親しく交わり、ここに神の国を建て上げて参りましょう。そして、イエスは主であると告白する群れを形作って参りましょう。
礼拝堂に飾られた蝋梅 固かった蕾が室内に置いている間に ほころび始めました 明後日くらいから雪の予報ですが 春はもうすぐそこまで来ています |
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