2024年1月1日月曜日

「すべての人への救い」(日曜日のお話の要約)

降誕節第1主日礼拝(2023年12月31日)

イザヤ書61章10-62章3節(1162) 

ガラテヤの信徒への手紙 4章4-7節(347)

ルカによる福音書 2章22-40節(103)


 ルーテル教会では礼拝の最後に「今、わたしは、主の救いを見ました。」と歌います。これはヌンクディミティスと呼ばれ、「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」という意味です。今から1500年前、キリスト教がローマの国教として認められた頃歌われ始めた曲で、ルカによる福音書2章の「シメオンの賛歌」にメロディをつけたものです。


 聖書では「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」となっています。シメオンは「神様が与えてくださった救いは全ての人に与えられる準備が整いました、ありがとうございます」と言っているのです。


 このシメオン、そして36節に登場するアンナは普通の老人ではありません。彼らには神様から救い主の誕生を示す役割を与えられていました。特にシメオンは「メシア、すなわち救い主イエス様と会うまで決して死なない」とのお告げを受けていました。救い主がこの世に来られた時、その大きな喜びをユダヤの人々に告げる役目を果たすために、彼らは長い長い間、祈りを絶やすことなく生きてきたのです。


 だからこそ、イエス様とその家族を目にし、赤ちゃんのイエス様をその腕に抱っこした時、待ち続けた時がついに終わり、神様を信じる民が救われる時がやってきた、という確信が喜びと共に表されます。


 普通に考えれば長生きするのは喜ばしいことですが、シメオンにとって、いつ終わるともしれない重たい役目を負わされて生きるのは辛い日々だったでしょう。そこから解放され、神様が迎えに来てくださる喜びをリアルに歌ったのです。


 ただ、ここで一つ不思議に思うことがあります。シメオンが見たのは、母マリアの懐に抱かれた幼子のイエス様です。生まれて40日を過ぎたばかりの小さな赤ん坊で、こちらが手を差し伸べなければ何もできない無力な存在だったのです。


 さらにいえば、この日マリアとヨセフが神殿に持ってきた捧げ物は非常に貧しいものでした。それでもシメオンは心のうちに神様の「お前には分かる、この子こそ救い主なだ」と響く声を聞いたのです。シメオンは幼子をうれに抱いて祝福し、アンナも近づいてきてこの出来事を賛美すると多くの人々に救い主の誕生を知らせに出かけたのです。


 シメオンとアンナは聖霊の導きに従って、貧しく一見平凡な家族に偏見を持つことなく、この一家こそ救い主の家族であると見抜いたのです。偏見に曇らない、こういった眼を持つことは、神様の僕には何より大切な事だったのです。


 ただ、シメオンはこの家族を手放しでほめそやしたわけではありません。それどころか、母マリアに辛い言葉を伝えます。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められている」と宣言されるのです。それだけでなく、「反対を受けるしるしとして定められています。」


 これはイエス様が指導者として厳しい道を歩まなければならない、との宣言です。もし普通の家族なら、生まれたての赤子に対して、なんて言うことを言うのだと憤慨するかもしれません。しかしこの家族はその言葉を受け入れました。マリアが天使から受胎告知を受けて以来、短い間に彼らを襲った信じられないような出来事の連続に、二人はは少々のことでは驚かなくなっていたのかもしれません。


 こうしてこの家族は、このシメオンの言葉を受け止めます。ただ者ではないイエス様の育ての親として、泥臭く、挫折を味わいつつも、イエス様のために自分に与えられた役割を担って生きると決めたのです。そしてそこには十字架に続く苦難の道がすでに計画されていたのです。


 誰でも良いことをすれば報いが得られると考えたいものです。しかし、私たちも知っている通り、イエス様は生涯をかけて良いことをして多くの人々を救ったけれど、その一方で悪気や嫉妬が生まれ、善意は悪意で返され、苦難を受け、ついには十字架に掛かるのです。


 しかし、シメオンが語るのは、そのような生き方、そのような人生になったとしても、その苦難の中に神ご自身がおられ、役目を全うしたイエス様を手本にせよと呼びかけるのです。


 私たちは苦難の中にあっても、別の視点で生き方を見直す力を神様から常に与えられています。シメオンは自分の命の終わりを感じつつ、次の世界をイエス様に託し、満足したことでしょう。人々の目にはまだ何一つ始まっていないように見えても、彼の目には神様の見せてくださる光景が遥かに時を超えて写っていたのです。


 さて、先週のクリスマスには、朝も夕方も、飯田教会に関わりを持つ人が多く集まってくださいました。礼拝に出席した最高齢は私の義理の母で95歳、一番小さい方は0歳、二人は軽く握手をしていました。


 どちらもいわゆる「この教会の人」ではありません。しかし神様に呼び集められ、わたしたちの教会がはるかに世代を交代して未来につながっていく様を見せてくださったようにも思うのです。


 来年は園舎完成という喜ばしいことがある一方で、では教会はどうなるのか、という不安に押しつぶされそうな時もあります。教会完成までの道は決して簡単でないことはみなさんご承知の通りです。しかし私たちは心を一つにして、イエス様による「すべての人の救い」を述べ伝えてまいりましょう。そこに神様の祝福があることを信じて共に歩んで参りましょう。



2023年最後の日曜日は大晦日。

2024年の新年礼拝と連続して出席する人は僅かでした。

それでも日ごろ来られない方が新年礼拝に来てくださったことは

大きな喜びでした。


コロナ禍の前は、飯田教会も他の教会と同じように

帰省したお子さんたちを連れて教会に集い

ぜんざいなどを食べる風習がありました。

しかしコロナ禍が開けたら(?)親御さんは高齢化していて

教会にお子さんを引っ張ってくるパワーが出ない、そんな感じでしょうか。

牧師は一人でも来る可能性があるなら礼拝の準備をして待ちますし

ZOOM配信の準備もしています。

ご一緒に神様を賛美できる時を大切にしてまいります。

どうぞお顔を見せてくださいね。


新年礼拝の一コマ




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