聖霊降臨後第15主日礼拝(緑)(2022年9月18日)
テモテへの手紙Ⅰ 2章1-5節(385) ルカによる福音書16章1-9節(140)
本日は「不正な管理人」の例えからご一緒に聞いてまいりますが、このお話の一つ前には「放蕩息子のたとえ」が語られています。放蕩した挙句にボロボロになって悔い改めて戻ってきた息子を、父である神様は心から赦し、迎え入れます。一方、ずっと実家に留まって働いてきた兄息子の方は、父親の寛大さに腹をたて、「あんなやつ弟とも思えない」と怒りをあらわにするのです。
「ごめんなさい、と言って許してもらえるほど世の中甘くない」と、兄息子の考えに同意する方もおられるでしょう。それが正しいこの世のあり方だと主張する方もおられます。イエス様はそのような考え方があることもご承知の上で、弟子達に向かって、この「不正な管理人」のたとえをなさいました。
このお話は一度聞いただけでは分かりにくく、弟子たちがなかなか理解できなかったからか、イエス様はこの話を何度も繰り返しなさったようで、その都度弟子たちは異なるところをポイントと捉え、それをそのまま書き記しました。
それは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らより賢く振舞っている」という警告であったり、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事に忠実である」という教えであったり、さらには「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」という意外な切り口であったり、複雑な構成になっています。
私たちにもこの例えは簡単には理解できません。私たちの頭の中には、キリスト教のイメージが定着していて、なんといっても「不正」という言葉そのものがイメージに全く馴染まないように感じます。とはいえ、イエス様が私たちに意味のないお話をするわけがありませんから、イエス様を信じて、深く理解する必要があるのです。
わかりやすいように、例えに登場する人物を整理しますと、「金持ち」とは無限の富と恵みを持つ神様のことです。そしてその神様から財産を委ねられた「管理人」とは、一人一人のクリスチャンを指していると考えられます。そして「主人に借りのある人」とは「まだ神様の恵みに預かっていない周囲の人」と理解するのがよさそうです。
管理人は、主人の財産を無駄遣いしていると告げ口されます。ピンチに陥った管理人は、主人に借りのある人の負債を減らして恩を売り、クビになった後の面倒を見てもらおうと考え、その計画を即実行に移します。その結果、主人の財産にさら損害を与えますが、主人はその行為を咎めるどころか「抜け目ない」と褒めたのです。
この例えは「神様から豊かな恵みを任された私が、自分のためだけに使っているのがバレて責任を問われたが、保身のためとはいえ他人のためにそれを使った時、逆に神様からほめられた」というストーリーになっています。これを踏まえて、少しずつ見て参りましょう。
まず初めに8節の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らより賢く振舞っている」についてです。「賢く振舞っている」というのは、目が開かれている、物事が良く見えている、という意味です。管理人は自分の置かれている状況を冷静に見て、自分の弱さも考えた上で、良い人間関係を築こうとします。やけになっている暇があったら利用できるものは利用する、という選択が「抜け目がない」ということです。
9節の「不正にまみれた富」というのは、聞こえは悪いですが、世の中に流通している価値あるもの、お宝とか多額のお金と解釈できます。
人間社会は清廉潔白に過ごすだけではお金儲けはできません。イエス様の教えを広げていくときでさえ、目的を達成するためには、お金がかかります。しかしこの世のお金は天から降ってくるわけではありません。計算高いと言われようが、なんと言われようが、融資してくれそうな人とギブアンドテイクの関係を築くのは大切なことです。
一方だけに旨みのある事業に投資する人はいません。しかし、お互いに旨みがあるなら目的達成のためにスポンサーになってもらうことは可能です。この世で成功する人々は、そういったことをさらりとやってのけ、自分の夢を叶えたり、事業を拡大したりしていきます。ところが光の子、つまりクリスチャンは、信仰の世界にそういったことを持ち込むのは浅ましいと考えてしまって、手をこまねいてしまうのです。しかしその富やチャンスは神様が与えてくださったと受け止めるなら、同じ目的を持つ友を得て、目的を達成していくために、与えられた恵みを用いる必要があります。
この世の中はどこからが悪で、どこからが聖なのか、きちんと線引きするのは困難です。そんな混沌とした世界に生きる私たちを、イエス様は召し出てくださいました。そして、私たちが自分の正しさにこだわりすぎず、時にはあえて闇の深いところところに踏み込んで、そこに光が差し込むように行動しなさい、と示されているのです。
そのような時、もしかすると、この世の人々は自分の固定概念に照らし合わせて、「クリスチャンのくせに清らかじゃないなあ」と、私たちを不正な管理人を見るかのような目で見て、批判するかもしれません。けれども、私たちには御言葉を伝えていくという大切な役割があります。弟子としてやるべきことは、与えられたものをフル活用するように祈り、行っていくことなのです。
その資質も、神様があなたに与えてくださったものです。今、この場所で、この時に、キリスト教信者として生きることを共に喜び、主の導きに歩んで参りましょう。
人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。
※
この例え話について、興味深い説がありますのでご紹介しておきたいと思います。「主人」が神様であることは変わりませんが、この「不正な管理人」というのは「イエスさまご自身のことである」という説です。イエス様はこの世の権力者から不正をしたと決めつけられ、民衆からは「十字架にかけろ」と罵られたのです。
イエス様は一人でも多くの人々を救うため、地上にお生まれになりましたが、人でありながら神の力を持つ、というのは確かに掟破りとも思われます。それでもイエス様は周りからなんと思われようと、ご自分の信念に基づいて多くの奇跡を行われました。
世間から見捨てられた罪人に声をかけ、重い障害や病に苦しむ人々を癒やし、時には死者さえ蘇らせました。ある時はほんのわずかな食材で5000人を満腹にし、自然界の掟に介入して風や波を鎮められました。子どもだったら「ずるいなあ」と言いそうなくらいの超人っぷりです。ただ、それら全ては、人々の魂を神様の元に導くという目的を達成する、ただそれだけのためでした。
しかし自分たちこそ正義だと考えるファリサイ人や律法学者、神殿の祭司たちはイエス様の行動の表面だけを見て、全くの律法違反、不正も極まりない、と考えます。伝統に凝り固まって頭の固い人々にとってはイエス様の行動は、神様の名を語り、怪しげな奇跡を行い、人々を正しいユダヤ教から異端へと連れ出しているように見えたのです。
彼らはイエス様の目的を正しく見素人もせず、十字架にかけてそのお命を奪いました。しかし、信仰なき人の目には不正に見え、神様の恵みを勝手に利用しているだけに見えた、そんなイエス様の行いこそ、神様がもっともお喜びになる行動だったのです。
何が「正」で何が「不正」なのか、視点を少し変えると、全く違うものが見えてきます。私たちイエス様の弟子達が常に見なければならないものは、イエス様が私たちのために、十字架に掛かってまでも見せてくださった永遠の命のある神の国なのです。
先週の火曜日、車の点検のため恵那市に向かいました。名古屋にいた時からお世話になっていた整備士さんが恵那の車屋さんに転職したため、車検も含めて引き続き色々とお願いしているのです。
作業が終わるまでの間、近くで「田んぼアート」が見られるというので、代車を借りて行ってきました。小高い丘に登り、展望台から見下ろすと、地上で見た時には想像もできなかった歌舞伎のキャラクターがはっきりと見えました。
たまたまですが、一時間に一本という明智鉄道の車両と一緒に写真を撮ることができました。
点検を終え、「この辺りなら栗だろう」ということで、栗の甘味で有名なお店へ立ち寄りました。コロナ対策のためか、喫茶スペースは広々としています。
目玉メニューとも言うべき栗パフェはなかなかのお値段でしたが、それだけの価値はありました。
日中は軽く30度を超える真夏日ながら、一足早い秋を満喫して帰ってきました。
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