2022年10月2日日曜日

「弱い魂への配慮」(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・聖霊降臨後第17主日礼拝(緑)(2022年10月2日)
テモテへの手紙Ⅱ 1章7-8節(391)
ルカによる福音書 17章5-10節(142)


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 私たちは今も昔も、立場の違う人間、同士お互いに分かり合えないことが多いものです。同じ聖書信仰に立つクリスチャン同士であっても、生まれも育ちも違えば感覚の違いはあり、教会内部が混乱することもあります。これはイエス様の弟子たちが宣教活動を開始し、さまざまな背景を持つクリスチャンが増えてくると、避けて通れない深刻な問題となりました。

 そこを乗り越えて伝道いくには大変な苦労が伴いましたが、彼らは本日の福音書にあるように、天の国で再びイエス様と出会えた時、「私はしなければならないことをしただけです」つまり「神様の僕としてやって当然のことをしただけです」と言えるように、心を整え、謙虚な姿勢で信仰を高めようと努力を続けたのです。

 彼らが踏ん張れた要因の一つに、イエス様が命じられた「小さき者への配慮」があります。この世のあちらこちらで生きにくさを抱えながら過ごしている小さき者たちを呼び集め、自分たちイエス様の弟子に託されたのだと信じたのです。

 本日のお話の前段階として、「小さい者をつまづかせないように」とイエス様は教えておられます。この「小さい者」とは、ふたつの意味が含まれています。一つ目は文字通り幼子や若者や知識・経験の少ない者、障害を持った人々、社会的弱者のことを指します。

 二つ目の「小さい者」とは「信仰の弱い者」と言う意味があります。みんながみんな一途な信仰を持っているわけではなく、誰かに反対されたり、嫌なことが起こったりすると、すぐに確信を失い、信仰がフラフラしてしまう人もいます。むしろそちらの方が多いかもしれません。

 この世の始まりのとき、神様は人間を作り、愛されましたが、人間は信仰の迷いから神様との約束を守るよりも、誘惑されるままに禁断の木の実を食べることを選び、楽園から追放されます。しかし神様は人間を見捨てず、愛し続けました。イエス様はその神様の無償の愛の全てを担ってユダヤの国にお生まれになりました。そして神でありながら人としてお育ちになり、やがて自らの足で歩いて弟子を集め、神様に愛されていることを信じなさい、と宣べ伝えられたのです。

 当時のユダヤの指導者は、自分勝手な解釈で聖書を国民に教え、神様の愛の教えを歪めていました。イエス様はそれを正しい形に戻そうとして指導者たちと対立し、捕らえられ、十字架の上で命を落とされます。しかしそれは、神様がイエス様にお与えになった役割でした。イエス様を信じるものは死んでも生きる、という信仰を人々にお与えになるために、あえてイエス様を十字架に送られたのです。

 イエス様が蘇られたことを信じた人々はクリスチャンとなり、地中海沿岸を中心に数を増やし、教会もいくつも誕生しました。イエス様の弟子たちは、社会から抑圧され、縮こまっていた人々を協会に迎え入れますが、しっかり学んで教会を支える者だけではありませんでした。先輩クリスチャンたちがいくら指導しようとしても、愛というのを履き違えた彼らは、甘やかされることを好み、注意されるとまるで反抗期の子どものように秩序を乱す行動に出ました。

 彼らを健やかな信仰者として育てたいと願いながらなかなかうまくいかず、弟子たちは苦しんだことでしょう。彼らはそうした苦しみを抱きながら、どうやったら「小さい者」をつまづかせないでいられるか、イエス様の教えを何度も振り返り、福音書に刻み込んだのです。

 ここにある「信仰を増してください」という願いは、問題ある人々から尊敬され、きちんと指導できる立派な信仰者にして欲しいという意味だったようです。それに対しイエス様は「あなたに素晴らしい信仰を与えよう」とはおっしゃいません。「あなたにからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう」と言われます。これは「あなたには、もうすでに、人を導くだけの信仰があるではないか、それが信じられないか?」と尋ねておられるのです。

 からし種は本当に小さな種です。一方、この桑の木とは、イエス様のお国でよく見かけるイチジク桑のことで、根が広く深く張ることで知られています。イエス様は、二つのものを対比して語られ、小さな信仰でも大きなことを成し遂げることができる、と教えておられるのです。

 「小さな信仰でも大丈夫なのか」と疑問に思われる方もおられるでしょう。しかし小さな信仰とは「死者の中からイエス様をよみがえらせた神を信じるか」という問いかけです。この問いかけは短く小さいけれど信仰の本質そのものなのです。
 「あなたが神様の存在を信じ、その方に愛されていることを信じるなら、あな
たが今、自分には力がない思っていたとしても、もう大いなる奇跡のスタートラインについている」と言ってくださるのです。

 私は小さくて弱いから、この仕事はもっと他の人に引き受けてもらたい、と思ってしまうことはきっとあるでしょう。恐る恐る引き受けたとしても、なかなかうまくいかず、誰にも評価されず、褒めてもらえない、そのようなことが起こるかも知れません。しかし、そこを一歩乗り越えて「神様がちゃんと見ていてくださる」と信じていただきたいのです。
 神様は私たち一人一人は弱く小さいものであることを知っておられます。その上で人間を愛し、イエス様を通して永遠の命を与えてくださいました。ですからどんな苦しみがあっても必ず神の国に招くと約束してくださった方を信じて、一人一人に与えられた勤めを誠実に果たして行きましょう。信仰を持って、イエス様から託された「小さき者」を受け入れ「弱い魂への配慮」を忘れないことは今も昔も教会に、私たちに、与えられた使命なのです。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


昨日は10月の土曜学校でした
コロナに伴う学級閉鎖や各小学校の運動会などで
土曜学校に来られた子どもはわずか3人!
いえ、こちらは一人でもやるつもりなのですが
「たったこれだけ!?」という子ども達の嘆きの声を聞かないために
何か工夫はないか?
ということで
牧師館で開催
園庭を見下ろす物干し台などにご招待
みんな「初めて入った〜〜(^▽^)」と興奮気味
すかさず工作開始です


お手伝いに来てくださった婦人会の方々と
楽しく会話しながら最後まで「ノアのはこぶね」を作り上げました
ほっと一安心です
さて、来月はどうなる!?
どきどきの教会学校Lifeです

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