聖餐式・宗教改革主日礼拝(赤)(2022年10月30日)エレミヤ書31章33-34節(1237)ヨハネ福音書8章31-36節(182)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。
本日はルターが火付け役となった宗教改革を覚えて礼拝しています。500年前のヨーロッパの教会は社会の中心でした。そのような時代に生まれ育ったルターは、大学で法律を学んでいた時、落雷に遭い「助けて下さったなら、わたしは修道士になります」と誓い、その通り修道士になります。
ルター教会での厳しい生活にも耐え、祈りと苦行を積み重ねましたが、聖書を読めばもっと神様の御心を知ることができるのではないかと考えます。当時は礼拝や儀式の中で新約聖書の指定された箇所を読みあげるだけで、神父や修道士といえども、全体を理解していたとは言えなかったからです。
やがてヴィッテンベルクの修道院に移ったルターは、ヴィッテンベルク大学に学び、ようやくつまみ食い的な聖書の読み方から解放されます。時間をかけて聖書全体を読み、その解釈を発表していく教師という立場になります。ルターが聖書を深く読み、神様の御心を知れば知るほど、当時の教会や封建社会の感覚とズレが生じはじめます。ついに「全聖徒の日」の前日、ルターは教会組織への質問状を教会の門に貼りつける、という形で一線を超え「宗教改革者」へと踏み出したのです。
ところで、本日の福音書に入る前に、イエス様の時代、人々が読む聖書とは「旧約聖書」だけだったということを抑えておきましょう。私たちが「新約聖書」と呼ぶものはイエス様が天に帰られた後に弟子たちが書き記したものですから、イエス様が十字架にかかられる前にはまだ存在していない、ということです。
当時のユダヤ人は子どもの頃から熱心な聖書教育を受けましたが、それら全ては「旧約聖書」だったわけです。今日読みました福音書の中で、ユダヤ人たちが「自分たちの先祖」と呼ぶのは、旧約聖書の一番初め、創世記に登場する「アブラハム」のことです。アブラハムは神様に信仰を認められ、子孫繁栄を約束されます。その子孫がユダヤ人達なので、彼らは「アブラハムこそ我が父」と呼びました。
そんな彼らに、イエス様は「真理」を知るように、と語りかけます。イエス様がここで言われる「真理」とは、正しく神様を知ることでした。「あなた方はアブラハム同様に神様に愛されている」と語りかけられたのです。先祖からの言い伝えや、人々の勝手な解釈が加えられた神様のイメージではなく、あなたを愛している神様にあなた自身を委ねなさい、そうすればあなた方は自由になることができる、と言われたのです。ところが、この呼びかけに人々は反論し、自分たちは不自由ではないと主張します。彼らのアブラハムへの思いは、尊敬や憧れを通り越して、まるで信仰の対象にまでなっているかのようです。
とはいえ、アブラハムが神様に愛され、「信仰の父」と呼ばれるようになったのは、彼が完璧な人間だったからではありません。彼は数々の過ちを犯し、失敗を重ねつつも神様を信頼し、何度でも悔い改め、その度に神様との絆を強くしました。その生き方を神様がお喜びになり、彼の子孫を繁栄させることを約束されます。
モーセの時代になると、神様は十戒をユダヤの民にお与えになり「こう生きればあなたたちは幸せになれる」とお教えになります。この教えは発展して律法と呼ばれます。ユダヤ人達は律法を文書にまとめ、守りましたが、あまりにも細分化されたので、律法の専門家と呼ばれる人々も登場し、民衆が正しく律法を守れるよう指導しました。
しかしアブラハムの時代から1000年以上が過ぎる頃には、人々は罪を犯すまいとして律法に縛られ、律法を守ることで神様に認められようと必死になっていました。神様の愛を信じて自由に幸せに生きていけるはずの人々が、見当外れな努力をして不自由な生き方に苦しんでいる様子を、神様は見ていられませんでした。だからこそイエス様を地上に遣わして「律法にとって一番大切なことは、神様はあなたが何者であろうと愛している、ということだ」とメッセージを送られたのです。
残念なことに結局人々はイエス様が取り次ぐ神様のお言葉を理解できませんでした。それどころかこの人々はイエス様がアブラハムを蔑ろにし、律法を大切にせず、神様を侮辱したと思い込みます。イエス様を十字架につけろと叫んだのも、もしかしたら彼らだったのかもしれません。
しかし、やがてこういったユダヤ教徒の中からキリスト者は生まれてきます。イエス様を神の御子と信じた人々は教会を作り、新しい聖書「新約聖書」を書き記したのです。古くから読まれてきた旧約聖書も合わせて一冊の「聖書」となりユダヤ人以外の人々にも読まれるようになっていきました。
こうしてせっかく神様の御心が一冊の本にまとまって、誰でも読めるようになったのですが、最初に普及した聖書はラテン語で書かれており、尊い本として翻訳が制限されたのでイエス様の時代から1000年以上が経過した、「中世」と呼ばれる時代になると、まともに読める人は高い教育を持つ一部の人だけでした。
だからこそ先程お話ししたように神様はルターを召し出され、教会の誤りを正し、聖書をドイツ語に翻訳すよう導かれます。そのタイミングで印刷機が発明され、聖書の普及に拍車をかけたことも神様の恵みでしょう。その後、ドイツ語からさらに多くの言葉に翻訳され、識字率が上がるにつれ、誰でも自由に読めるようになります。こうして民衆は再び神様の愛を取り戻したのです。
ルターは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」という言葉を残しましたが、これはイエス様のご生涯そのものです。いと高き神の御子として人間に服従する必要のない方が、あえて家畜小屋の片隅で生まれ、その人生の最後の最後まで人間に寄り添ってくださったのです。私たちの生きるべき手本はここにこそあります。
私たちには直接聖書を読み、イエス様の語り掛けを聞く力が与えられています。だれかの解釈を鵜呑みにするのではなく、イエス様が一人一人に与えてくださった自由を正しく受け取りましょう。そしてあなたに与えられたなすべき勤めを大胆に喜びを持って果たして参りましょう。
人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。
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