2022年8月7日日曜日

「しっかりと信仰に生きる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2022年8月7日)
ヘブライ人への手紙11章1-6節  ルカによる福音書12章35-40節 


 本日はルカによる福音書12章32節の「小さな群れよ、恐れるな」と言うイエス様の言葉から始まります。この「小さい」という言葉は、私たちも知っているミクロ、あるいはマイクロという言葉で、1ミリの千分の1です。まさに吹けば飛ぶような小ささです。しかしイエス様はその小さいものに向かって「恐れるな」と言ってくださいました。このところから今日は聞いて参りましょう。


 イエス様の言われた「恐れるな」とは、もともと「逃げ出すな」という意味にもとれるそうです。イエス様は「あなたはとても小さいけれど、もう逃げ出すな」とおっしゃいます。「あなたは、喜んで神の国に迎え入れてくださる神様に愛されているのだから、逃げ回る必要はない」と示してくださいるのです。


 イエス様は、わたしたちがどんな良いことしたら天国に行けるか、と教えておられるのではありません。あなたは最初から神の国に行くことが定められている、と言われるのです。わたしたちは良い意味で神様の御手の中にあって、守られ導かれているのです。人生の中の小さなことも大きなことも、神様ご自身があなたの人生を愛して計画してくださったことなのです。


 ただし、その中には、事件や事故、災害、病気、怪我、愛する者の死、別れという、人にとって全くありがたくないものも含まれます。絶対手放したくないと思っていたものをある日突然奪い取ることすら神様のプレゼントだというのなら、そんな神様は信じられない、そう思って嘆き悲しむこともあるでしょう。その思いは人として当然と言えば当然です。

 私たちは誰でも「絶対手放したくない大切なもの」を持っています。しかしイエス様は、あなたにはもともと神様から頂いた多くの恵みがある。何かを失いたくないあまり、一人で抱えこんだりしないで、大切なものであればあるだけ、神様を信頼して委ね、身軽になって、神様が注いでくださる新たな恵みの賜物をシャワーのように受け取りなさい、と教えてくださるのです。


 そして、このお話に続いて、イエス様は「目を覚ましている僕」の話をなさいます。この僕は結婚式の披露宴に招かれた主人が帰ってくるのを待っています。当時のユダヤの婚宴は何日も続き、一週間かかるのも珍しくありませんでした。主人が1週間も留守にすると聞くと、大抵の人は「あーしばらくの間、帰ってこないなら、少しはリラックスできるな」とばかり、戸棚に隠しておいた自分の好物のせんべいを頬張り、テレビでもつけてんのんびりしようと思うかも知れません。


 本当は主人がいつ帰宅してもきちんと対応できるように準備して待ち続けるのが仕事なのですが、それができる人の方が少ないでしょう。だからこそ、突然戻ってきた主人に、ちゃんと仕事をしているところを見られた僕は幸いだ、とイエス様はおっしゃいます。

 主人は僕の誠実な働きを心から喜び、僕たちを座らせ、自分は使用人の証である帯を腰に締め、僕のために給仕を行う、と言われるのです。2000年前の主従の関係を考えれば、現代の私たちが思う以上にあり得ないほどの悦びようです。


 イエス様はこの例えを通して、神様に誠実であることはどんなことより神様に喜んでいただけることだと教えておられます。形だけ信心深い行いをしたり、心のこもらない多額の献金をしても神様はお喜びにならない、神様はあなたの心の内をいつでも見ておられ、その誠実さを喜ばれる、と教えるのです。


 トルストイの「愛あるところに神あり」というお話をご存知でしょうか。日本では「靴屋のマルチン」というタイトルで有名です。この物語には腕の良い靴屋のマルチンが登場します。彼は妻と息子を亡くしたことから希望を失い、神さまを責め、教会からすっかり離れてしまっていました。

 しかし、ふと聖書を読み始めたマルチンは、毎晩、毎晩、夢中で読むようになります。そんなある日、マルチンは夢の中で「マルチン、マルチン。あした行くから待っておいで」というイエス様の御声を聞きます。


 翌日、マルチンが店で仕事をしながらイエス様が来られるのを今か今かと待っていますと、彼の前に次々と貧しい人々や困難な状況に置かれている人々が現れます。マルチンは自分のできる方法で彼らに手を差し伸べ、もてなしました。

 日が暮れて、イエス様は結局いらっしゃらなかったのかと思った時、イエス様の御声が聞こえます「マルチン、お前が助けた人々はみんな私なんだよ」。マルチンは夢ではなかったことを大いに喜び、その心は満たされた、という物語です。


 作者であるトルストイは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というマタイによる福音書25章40節の聖句を引用しています。マルチンは特別力むことなく、自然体で人々をもてなしますが、その人々こそ主ご自身だった、という出来事は私たちの信仰生活に喜びと同時に緊張感を与えます。


 イエス様は、2000年前、地上の役割を終えて天に帰られる際、必ず再び戻ってくるという約束を弟子達になさいました。イエス様はご自分がお留守の間、ご自分の仕事を弟子たちに託し、その帰りを待つようにとに教えられたのです。

 イエス様の弟子であるならば、イエス様がいつ帰って来られても大丈夫なように、キリスト者として誠実に生きることが何より大切です。私たちの先輩である歴代のクリスチャンたちも、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という御言葉を心に刻んで人生を生き抜きました。


 私たちは、この時代に、この場所で、一歩踏み込んだ信仰に生き、日々与えられる恵みに感謝と祈りを捧げつましょう。恐れることなく大胆にイエス様を信じ、この世の嵐に吹き飛ばされることなく、しっかりと信仰に生きて参りましょう。





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