聖霊降臨後第8主日礼拝(緑)(2022年7月31日)
コロサイの信徒への手紙3章1-4節 ルカ福音書12章13-21節
本日の福音書は「愚かな金持ち」の話です。
イエス様がご自身がお伝えになりたいことを半分ほど話し終え、一息ついた時、集まっていた群衆の中の一人が「身内の遺産を自分に有利になるように、自分の味方になってください」と願ったのです。
イエス様がご自身がお伝えになりたいことを半分ほど話し終え、一息ついた時、集まっていた群衆の中の一人が「身内の遺産を自分に有利になるように、自分の味方になってください」と願ったのです。
当時のユダヤでは律法学者が律法に基づいて相続分配についての調停役を担っていましたから、イエス様ほどの方なら兄弟を説得して、きちんと財産分与されるようにして下さると考えたのでしょう。
しかしイエス様は従来の律法学者のように財産に関わるのはご自分の仕事ではないとおっしゃいました。とはいえ、そのままこの人を突き放すことはなさいませんでした。それはこの人が金銭や財産にからむ貪欲によって神様の御言葉が耳に入らなくなり、神様から離れてしまうという「悪魔の誘惑」に陥ろうとしていたからです。
そこでイエス様は続けて人々に向かって「どんな貪欲にも注意を払い、用心をしなさい」と教えらます。いつの時代も人間の世界には欲しいものが溢れています。お金があればあるだけ欲しいものが増えていきます。お金があれば名誉や地位も手に入れられる、何でもできるのに、といった誘惑に晒されます。その誘惑に抵抗できなくて、盗みや人殺しまで犯してしまう、そんな思いが人の心の中には潜んでいます。
イエス様に遺産分与の口利きを願ったこの人は、そんな闇に囚われる寸前だったのでしょう。「財産さえあれば」と思うあまり周囲が見えなくなっているこの人の有り様は、イエス様の目には非常に哀れに映ったのでしょう。それでお話の流れを変えて、この「愚かな金持ち」のお話をなさったのだと思われます。
お話は至ってシンプルです。ある金持ちの畑が豊作になりました。あまりにたくさん収穫があったので、どこに保管したら良いだろう、という贅沢な悩みが生まれました。そこで彼は今まであった蔵を壊してもっと大きいものに建て替え、そこにしまおうと考えます。何年も生きて行けるだけの蓄えができた彼は幸せな気持ちで一杯になってつぶやきます『さあ、これから先何年分も生きて行くだけの蓄えができたぞ。一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ。』
しかし神様はその夜に彼の命を取り去ると宣言されます。人生を思う存分楽しもう!という時に「愚か者よ、お前の人生は今夜で終わりだ」と神様から言われてしまったのです。まるで悪夢のような物語です。
たとえに語られているこの愚かな金持ちの言葉は、原文では「私の」「私の」という表現が繰り返し使われています。例えば17節、18節を原文に近いニュアンスで訳してみますと「どうしよう、私の作物をしまっておく場所がない。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに私の穀物や私の財産をみなしまい、こう私に言ってやるのだ」。
ここには働いてくれた雇い人に恵みを還元しようとか、貧しい人のために援助しようという考えはみじんもありません。それどころか神様への感謝などすっかり忘れてしまっているのです。成功したばっかりに神様を忘れて自分の幸せに酔いしれ、自分のことしか考えない、自己中心的な人間に成り果ててしまったのです。
しかし、この例え話を同じ日本人にするとキョトンとされてしまうことがあります。自分の儲けを自分のために使うのは当然ではないか、キリスト教の神様は恐ろしい、ひどい、勝手だ、といった反応です。実は、この反応は日本人によく見られる、と指摘されています。
日本人の多くは特定の宗教を持たず、なんとなく善人で、警察のお世話になるような悪いことは一切していない正直者であることを誇りに思っています。
漠然と神仏を信じていますし、先祖の供養もちゃんとして、お守りなども購入しますが、それらに自分の人生を委ね切るようなことはしません。結局は自分を信じ、頼れるのは自分だけだと感じていて、自分の正しいと思うところに留る。日本にはそういった人々が圧倒的に多いのです。
私たちはこのような人々が構成する社会の中で暮らしています。あなたのごく親しい方々もそうではないでしょうか。教会生活を大切にし、自分の収入の何割かを神様に捧げ、重大な決断は祈りと聖書のみ言葉によって導かれることを願う、そんな私たちの生活は周囲から奇妙な目で見られたりします。まして、今ニュースで旧・統一教会が盛んに話題になっていますが、そういった組織と混同されてうさん臭い目で見られることすらあります。
そういう意味では、日本人クリスチャンは欧米のキリスト者と比べて「信仰的」に生きることはなかなか難しいと言えるでしょう。神様に従って生きることを第一にしようと奮闘している私たちは世間から変わり者と見られるかもしれません。しかし周囲の人から「変わり者と呼ばれても、神様から「愚か者」と呼ばれるより遥かに素晴らしいのです。
イエス様は人々に神様の元にある平等をお教えになるために、ご自身の生涯を献げられました。全ての人は神様の愛の対象であり、全ての人は神様の愛によって生きることを命をかけてお教えになったのです。そして私たちはその神様から永遠の命という財産をすでに与えられているのです。これはこの世の財産とは比べ物にならないのです。そして、いくらお金を積んでも決して手に入らないものなのです。
どんな時も神様から与えられた賜物を用いる工夫を忘れず、最後まで感謝を持って生きられるよう願い求め、天に宝を積む信仰を持って歩んでまいりましょう。
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