聖霊降臨後第7主日礼拝(緑)(2022年7月24日)
コロサイの信徒への手紙2章6-12節 ルカ福音書11章1-13節
本日は「主の祈り」について聖書から聞いてまいります。「主の祈り」はマタイ福音書の6章と、ルカ福音書の11章に記されていますが、今日はルカ福音書を中心に見ていきましょう。
弟子たちはイエス様に「祈りを教えてください」と願いますが、ユダヤ教徒だった彼らが祈り方を知らなかったわけはありません。彼らは子どもの頃から聖書を学び、祈りの言葉を唱えました。神殿の祭司やファリサイ派の人々は祈り方を指導し、彼ら自身も人前で祈ることを得意としていました。一般の人々は、あれほどしないと祈りは聞かれないものだ、あれほど厳しい断食なようなことをして、一晩中や熱心に祈らなければ、神様は聞いてくださらないのだ、と思っていました。
そんな時、イエス様の先駆けとして現れた洗礼者ヨハネは、祭司やファリサイ派のやり方を「見せかけだけ」と批判しました。自分の弟子達にヨハネ独自の祈り方も教えたでしょう。おそらく今までの伝統的で形式的な祈りとは全く異なる祈り方だったと思われます。それを知ったイエス様の弟子たちは尊敬するイエス様から自分たちも祈り方を教わりたいと願ったのです。
そんな彼らの思いに応えてイエス様が教えてくださったのが「主の祈り」でした。ただし、イエス様の教えてくださったこのお祈りは、当時の習慣からすれば異例ずくめでした。単純で、ストレートで、誰でも理解できるよう、簡単明瞭な言葉が用いられました。
その祈りの始まりは「お父ちゃん」と言う言葉だったので弟子達もたまげたのではないでしょうか。イエス様は、まだ幼いユダヤの子どもが父親に愛情と信頼を込めて呼びかける「アッバ」という言葉を用いて、祈り方を教え始められたのです。
幼い子どもは甘える時はたいてい母親に呼びかけます。あえて「お父ちゃん」と口にするのは、何かをねだるときか、誰かにいじめられて、自分の力ではどうにもならない時など、自分の力では解決できないことに直面した時、お父ちゃんならなんとかしてくれる。子どもはそんなふうに自分の弱さ、小ささを知った上で「お父ちゃん」に頼り、呼び掛けるのでしょう。
天地創造の神様にまず「お父ちゃん」と呼びかけるよう教えられたイエス様は、人間が自分の弱さや小ささを知り、神様に頼ることから始めよう、とおっしゃったのです。神様の前に無力さを曝け出して、幼児のようにおねだりしなさい、と教えられるのです。
ここに記されている主の祈りを、あえて幼い少年のような言葉で言い直すなら、こんなふうになるでしょう。「お父ちゃん、おれ、お父ちゃんに恥かかさないように、お父ちゃんがこうなってほしいって思う世界を作るために頑張るから今日もご飯ちょうだいね。時々失敗すると思うけど、その時は勘弁してね。誰かが邪魔したり喧嘩ふっかけてきて酷い目にあっても、やり返さないでちゃんと赦せるようにするから、そんな事があんまりないよう守っていてね」
こんな祈りは格調も何もあったものではない、と思われるかもしれませんが、最初の弟子たちはそれほど学歴もない、平凡な経歴の人々でした。イエス様は、ご自分の弟子たちが祈りの本質を理解できるように、気取った言葉や型式ばった言葉を取り払い、弟子たちが祈りの本質を理解して祈れるようお教えになったのです。
改めて一つ一つの言葉をもう少し細かく見ておきましょう。
この「父よ、御名が崇められますように」は「俺は父ちゃんの顔に泥を塗らない」と解釈できる言葉です。神様の望まれる世界は平和に他人を思いやって過ごすことができる世界ですが、なかなかそれは実現できません。人間の力だけでは到底実現できないのです。だからこそ神様が統治される「御国」が一日も早く実現するように、と強く望むのです。
「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」とは、その働きを進めていくために、「お腹が空いたら働けないからご飯をください」という意味です。こんなことを祈るのは神様に失礼だ、浅ましい、などとはイエス様はおっしゃいません。飢餓に耐えて信仰を貫ける強い肉体や精神を持っている人はごく稀です。ですから神様から離れないでいられるように「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」と祈るのです。
この後は「わたしたちの罪を赦してください」です。さらに続けて「私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と教えられます。ここが主の祈りの中で一番難しく、思わず声が小さくなる、と皆さん言われます。「自分に負い目のある人を皆赦し」ていない心のありようをご存知だからです。だからこそ、主の祈りはここがキモだとも言えます。
神様に受け入れられ、愛されるということは、返せるはずのない莫大な借金を丸々帳消しにされるのと同じです。イエス様は返しきれないはずの負債を、ご自分の命で支払ってくださいました。その愛を知った私たちはイエス様を再び苦しめないために、罪を犯さないでいられるよう、願い求めるのです。
イエス様によって神様の子とされて生きるものは、どんなに難しい関係がそこにあっても、憎み合いやひどい仲違いを止められるはずです。「仲良し、仲良し」とベタベタしなくても良いから、相手の存在を受け入れなさい、お互い神様に生かされている存在であることを認め合いなさい、と教えられるのです。
礼拝では必ず主の祈りを唱えます。あれこれ意味を深掘りして結局お手上げ、となるのではなく、一つ一つの意味をシンプルに理解しながら、声と心を合わせ、口にして参りましょう。イエス様が教えてくださった祈りを共に唱えるとき、そこに父なる神様の恵みと愛と微笑みが注がれていることを忘れないで、願いを込めて参りましょう。
土曜の午後、短く書き改めた説教を YouTubeで配信するため、収録を行います 幼稚園兼教会の建物は土曜日でも 保育が行われているので結構賑やか 小さな乱入者(笑)を避けて、2階の牧師館で撮影します 映り込んでほしくない私物をあれこれ片付けて やっと撮影が始まります |
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