聖霊降臨後第5主日礼拝(緑)(2022年7月10日)
コロサイの信徒への手紙1章10-14節 ルカによる福音書10章25-37節
聖書には魅力的な物語がたくさんあります。登場人物の波乱に飛んだ人生にハラハラしたり、神様の深い愛や力強さに感動することだらけです。ただ残念なことに、私たちは「それはそれ、これはこれ」と考えやすく登場人物たちのような奇跡の出来事は自分の人生には起こり得ない、と心に壁を作ってしまいます。
かつて人間がエデンの園で神様に愛され守られて暮らしていた人間は、神様とのたった一つの約束を破り、食べてはならない果実を食べたため、神様との関係は壊れました。神様との豊かなコミュニケーションは失われ、人間の心の内に「どうせ私は神様に愛されていない」という壁が出来上がってしまったのです。
しかし人間が心の壁を作ってしまった後も、神様はあらゆる方法を使って人間に働きかけられました。その結果イスラエルの民の中に、稀に心の壁の薄い人物やほとんど壁のない人物が誕生しました。神様はそういった人々に語りかけ、リーダーとして召し出したのです。
彼らもまた完璧な人間ではありませんでしたから、神様よりも武力や経済力に頼ろうとすることもありましたし「自分は神様に不当に扱われている」と暴言を吐くことすらありました。それでも神様は彼らを見放さず、彼らも再び心を神様に向け、困難という流れの中に信仰という橋をかけて乗り越えていきます。
数百年の時が流れ、イエス様の時代には神様と人との愛と信頼の出来事は巻物としてまとめられ、礼拝で読まれるようになりました。これを読み解く専門家が「律法学者」で、彼らはイスラエル社会の中で高い地位を得て、国の政治から人々の日常生活にまで大きな影響を与えていました。
そんな社会の中に、イエス様は神様から遣わさました。神の御子であるイエス様は律法を人間の専門家から学ぶ必要などありません。専門家たちが驚くのを尻目に、深い知識と豊かな言葉で、人々が待ち望んできた神の国の到来を告げました。しかし律法学者や、彼らが所属している宗教派閥のファリサイ派、そして神殿の祭司たちはイエス様のお言葉や奇跡を実行されるその行動に強く反発しました。
イスラエルの常識では「神は律法を犯した者は容赦無く罰する方だ」でしたから治療不可能な病気や障害を負ったものは神に見捨てられたのだ、と説きました。そんな人々を癒すイエス様の行動は彼らにはむしろ罰当たりに見えました。律法学者たちの考えはイエス様と真っ向から対立したのです。
本日イエス様は「よきサマリア人」のお話をされましたが、これはこうした律法学者とのやりとりの中で語られたものです。彼は永遠の命を得るにはどうしたら良いか、と質問しましたが、実は聖書にはどう書かれているか既に知っていましたからイエス様に問い返されて、自慢げに聖書から引用して「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えます。
そこでイエス様は「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃいます。しかし律法学者はそこで引き下がりません。「では私の隣人とは誰ですか」と食い下がります。
イエス様は、その律法学者が知識は豊かでもそれを解釈する方向が間違っていることに気づかれました。彼の心に神様の愛を弾き返してしまう分厚い壁がありました。イエス様はその壁を取り除くために、この物語を創作して語られたのです。
イエス様は「ある人が」と語り始めます。おそらくユダヤ人であろうその人が、エルサレムからエリコに下っていく途中、追いはぎに襲われた。そのままなら、確実に命を落とすという状態です。
この窮地に通りかかったのが同じユダヤ人で宗教関係の人物でした。最初に祭司、二番目にレビ人がやってきます。しかし二人とも道の反対側を目を背けて通って行ってしまいます。
三番目にやってきたのがサマリア人です。サマリア人はユダヤ人からみれば、同じ先祖を持ちながら歴史の中で混血し、イスラエルの神様から離れてしまった汚らわしい民族でした。しかしこのサマリア人は倒れている人を見て放っておけません。彼は、自分ならこうして欲しい、という助け方を全て実行します。次の日にはお金を渡して介抱を頼み、間違ってもこの人が人買いに売られないように、帰りにまた様子を見にくる、と言いおいて自分の用事をするために去っていったのです。
イエス様はここで話を終え、改めて律法学者に問いかけます。「誰がこの人の隣人になったか」イエス様を試そうとした律法学者は、先ほど「隣人を自分のように愛しなさい」という教えが重要だ、と答えた手前、ここで答えないわけにいきません。絞り出すように「その人を助けた人です」と言ったことでしょう。それを聞いたイエス様は「行って、あなたも同じようにしなさい」とおしゃっただけでした。
「同じようにしなさい」の「しなさい」というのは、作るとか結ぶという意味で、橋を作るという建造物等を建てる時もこの言葉を使います。
この律法学者のように、正しい答えを知っていることと、それを実行することには大きな隔たりがあります。その隔たりを超えるために、心の分厚い壁を壊して自分のカラから飛び出し、全身全霊を使って隔たりに橋をかけるように行動することが、神様に喜ばれることなのだと、イエス様は律法学者に教えられたのです。
この後、この律法学者が、悔い改めたかどうかは分かりません。彼は本当に悔しかったと思いますが、「その人を助けた人です」と明言しました。彼は律法学者として、神様の掟とは「そこに苦しむ人がいるなら、その人を助けることが神様の喜ばれることである」という土台の上に立つことはできたのです。
自分の身近で助けを求めている人が誰一人いない、ということはないはずです。みなさんが高齢であっても、障害があっても、誰かしらあなたの助けを必要としている人がいるはずです。ただ温かい挨拶を交わすだけでも、笑顔を向けるだけでも、どんなささいなことであっても、できる範囲で構わないのです、神様の御心を抱いて実行に移していくことが私たちに望まれているのです。
飯田教会は「丘の上」と呼ばれる 少し高いところにあるため 近隣で上がる花火が2階の牧師館からよく見えます 飯田は花火の盛んな土地ですが 大抵の場合土曜の夜なので 翌日の礼拝の音響などを設定しながら チラチラと見る程度しかできないのがとても残念です |
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