聖餐式・全聖徒の日礼拝(2021年11月7日)
ヨハネの黙示録 21章1-4節 ヨハネによる福音書11章38-44節
ヨハネの黙示録 21章1-4節 ヨハネによる福音書11章38-44節
本日は全生徒の日礼拝です。既にこの世を去り、天国の住人となった皆様の写真を飾り、天においても地においても共に神様を讃えよう、という礼拝です。
本日、ラザロのお話に入る前に、イエス様が死者を生き返らせた記録が他に2つあることを見ておきましょう。
本日、ラザロのお話に入る前に、イエス様が死者を生き返らせた記録が他に2つあることを見ておきましょう。
まずひとつ目は、ルカ福音書7章、ひとり息子に際立たれたやもめの出来事です。イエス様はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくてもよい」と言われました。「憐れに思い」という言葉は「はら」、「おなか」を意味します。上から目線ではなく、心の底から、腹の底から絞り出されるような深い同情です。それほどに共感しながら、イエス様は一人息子の遺体の棺に手をかけて葬列をお止めになり、蘇りの奇跡を行われたのです。
もう一つはヤイロの娘の奇跡で、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書にそれぞれ記されています。ヤイロはユダヤ教の世界でそれなりに地位のある人物でしたが、自分の娘の病気を治して欲しいとイエス様の元へ来て平伏します。イエス様は弟子たちを連れてヤイロの家を目指すのですが、途中、別の病気に苦しむ女性と出会い、彼女を癒したりしているうちに「娘は死んだ」という知らせが入ります。絶望するヤイロに向かってイエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけます。ヤイロの家に到着されると娘の手を取って起こします。
これらの蘇りの奇跡で共通するのは、身内を失った人々にイエス様が寄せられた並々ならぬ同情と力強い励ましの言葉です。これは本日読みましたラザロの復活にも共通している出来事なのです。
今日のお話の舞台となっているのはエルサレムにほど近いのベタニアという村です。ラザロの死の知らせを受けたイエス様は、直接ラザロの家には行かず、村の入り口に留まります。そして迎えに出たラザロの姉のマルタに励ましの言葉を語ります。これは有名な聖句で、25節に記されています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
イエス様は悲嘆にくれるマルタに向かって「泣くな。 ただ私を信じなさい」と言われたのです。しかし、こう言われたマルタの心のうちはどうだったでしょうか。イエス様は一体何を信じろと言っておられるのでしょうか。マルタは「イエス様がメシアだと信じています」と口にするだけで精一杯だったことでしょう。その後、マルタの姉妹のマリアもイエス様のもとにやってきます。しかしマリアは気丈に振る舞っていたマルタとは異なり、イエス様の足元に泣き崩れます。それを見た村人たちも同情して涙を流し始めた時、イエス様もまた涙を流されたのです。
ラザロの墓の前に立ったイエス様は人々に命じて墓を塞いでいた石を取り除けさせます。そして父なる神に祈られた後、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。すると、死んでいた人「死んでしまった者」が、葬られた時と同じ姿で、まるでミイラ男のように体を布で包まれた状態で出てきたのです。
こうしてイエス様の奇跡によって蘇ったラザロは、家族や村人に喜んで迎えられます。かなり後のことですが、ラザロはイエス様を信じるものとして伝道者となり、キプロス島に赴きます。キリスト教を広めたそうです。やがてこの島で亡くなったラザロを記念して「聖ラザロ教会」というギリシア聖教の教会があります。
当たり前の話ですが、一旦生き返ったラザロは、やがて再び死を迎え、この世と別れを告げたのです。イエス様に蘇らせていただいたからといって、地上でいつまでも生きられるわけではありません。同じように、イエス様の奇跡で生き返ったナインのやもめの息子も、ヤイロの娘も、やがて死を迎えたのです。
こうお話しすると、疑問を持つ方もおられるでしょう。イエス様がマルタに仰った「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」というのはどういうことなのかと。「イエス様を信じる者は、死んでも生きる」と言っても、いずれは死ぬのなら、一時的に生き返っても、大して意味は無いじゃないか、と思われるかもしれません。しかしイエス様の言われる「死んでも生きる」というお言葉は、私たちの命に関する常識を覆してしまう力強いお言葉なのです。
人間は、いつか必ずやってくる死というものに、心のどこかで怯えながら生きる存在です。大切な存在が死にそうな時にはオロオロしますし、幸せな時を過ごせば過ごすだけ、いずれ死によって全てが失われるのか、と悲しくなる。どうせ何もかも失うのなら、とやけになって、人を巻き添えにして死のうとする人さえいます。
これはまさに「死のとりこになっている」状態なのです。キリストがナインのやもめに深く同情し、ヤイロに「ただ信じなさい」と言われ、マルタに「わたしは復活であり、命である」とおっしゃったのは、「大切な人を死ぬことで失うのは自分が死ぬより辛い」と、死におびえて苦しむ人々の心を解放するためだったのです。
人間は死ぬことによってこの世を離れるけれど、決してそれでは終わらない。天の国で永遠の命が待っている。イエス様は口先だけでなく、このことを理解して欲しくて、深い同情と熱い涙によって、力強く「信じなさい」と語ったのです。そしてイエス様の思いを受け止めた人たちは、2度とこの世の死を恐れることなく永遠の命の待つ天の国へと旅立っていったのです。
私たちの人生も、いつどうなるかわからないという不安はつきものです。誰が先に死ぬのかは分からないのです。ただその死において、イエス様は近づいてくださり、寄り添ってくださる。聖書に記されたこの出来事から私たちが分かることは、よみがえりであり、命であるイエス・キリストが私たちの側に歩み寄ってくださる。そしてその場所が死の床だろうか、災いの場所だろうか、墓の中だろうが、力強く呼びかけてくださるのです。「わたしは復活であり、命である。」このみ言葉を心に刻み、大切な人々とやがて天国、神の国で会える時までイエス様を信じて歩んで参りましょう。
先週土曜日は11月の土曜学校でした
礼拝ではクリスマスに備えてヨセフさんのお話を聞きました
クラフトはキラキラドーム(スノードーム)
園芸用の淡い色のボールを入れると
瓶の中でふわふわ動いて素敵な仕上がりになりました
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