待降節第2主日礼拝(2021年12月12日)
フィリピの信徒への手紙4章4-7節 ルカによる福音書3章7-18節
フィリピの信徒への手紙4章4-7節 ルカによる福音書3章7-18節
ルカによる福音書は、イエス様のお生まれについて書き始める前に、洗礼者ヨハネの誕生のエピソードを事細やかに記しています。ヨハネの両親の名前や、彼らに与えられた不思議な誕生の予告。イエス様の母マリアが会いに来てしばらく滞在していたこと、「ヨハネ」と名付けるまでのすったもんだ。それらのことが興味深い描き方で記されています。
また、ヨハネが死んだ時のことはマタイ福音書とマルコ福音書に詳しく書かれています。ヨハネの死は後の時代に戯曲になるほどドラマチックです。ヨハネがどれほど重要な人物であったかがわかります。
また、ヨハネが死んだ時のことはマタイ福音書とマルコ福音書に詳しく書かれています。ヨハネの死は後の時代に戯曲になるほどドラマチックです。ヨハネがどれほど重要な人物であったかがわかります。
洗礼者ヨハネのもっとも大切な役割は、神の御子がまもなく来られることをユダヤの民衆に告げ、その準備をさせることでした。ヨハネは人々に語りかけました。「自分の不信仰を周りのせいにして、今のような堕落した生き方をして神様を嘆かていれば、遠からず厳しい裁きが下る」「神の民としてのプライドを取り戻せ」ヨハネの言葉はユダヤの民衆の心に突き刺さりました。
ヨハネ自身は荒野で極限まで質素な生活をしていましたが、迷える人々には、今の職業もそのままで、神様に忠実に生きるよう覚悟を決めなさい、とアドバイスしました。神様はヨハネを通して、体裁を整えることよりも、神の御子をお迎えする、その心こそが大事さがある、と伝えられたのです。
「洗礼」はユダヤ教の世界には古くから儀式として存在していました。「きよめの儀式」とも呼ばれ、「神様に仕えるために身を清潔にし、神にふさわしい者となる」という意味を持ちました。ユダヤ人たち、特にエルサレムに住むインテリたちは決まりに従って、まるで風呂にでも入るように1日に何度でも沐浴しました。
エルサレムでイエス様の時代の遺跡の発掘調査をすると、洗礼のための浴槽が、大きなものから小さなものまで、無数に発見されるそうです。この浴槽には水に降りる階段と水から上がる階段が別々に設けられています。せっかく清めた体が再び汚れないように階段を分けたのです。ちょっと度が過ぎるようにも感じます。
実際、ファリサイ人たちの清めの意識は極端で、マルコ福音書などでも、イエス様と弟子たちがきよめを省略して食事しているのを見てファリサイ人たちが難癖をつけている様子が記されています。当時の洗礼は心のありようや信仰の問題よりも、「やったか、やらないか」という形だけ、形式だけに陥っていたようです。
そのような形骸化した洗礼がまかり通る世の中で、洗礼者ヨハネが行った洗礼は型破りでした。洗礼の場所はきちんとした建物の中などではなく、ヨルダン川で行われ、体が清潔になったかどうかは全く問題ではなく、心を神様に向けて生き直すかどうかだけが問われたのです。
イエス様ご自身もヨハネによって洗礼を受けておられますが、ご自分でも洗礼について言及しておられます。マタイ福音書の終わりや使徒言行録の書き出しの、復活したイエス様が天に帰られる時のお言葉です。マタイ福音書にはこうあります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい」
イエス様はこのように、洗礼を受けることを大切な約束として宣言されました。こうして現在に至る洗礼の形が出来上がったのです。
ところで、この時、イエス様はこの世の終わりにもう一度来られると約束してくださいました。それから数十年が過ぎると、その約束を直接聞いた人々はどんどん少なくなっていきましたが、後を引き継いだ人々はイエス様のお言葉を忠実に守り、地中海沿岸に住む人々に伝道を続けました。相手がどこの国の人であろうと、また身分が奴隷であろうと貴族であろうと、こだわらずに伝道を続けた教会は、厳しい迫害が繰り返されても成長を続け、信徒の数も教会の数も増えていきました。
かつてユダヤ教では洗礼という儀式が形骸化した経緯がありました。そこでキリスト教会では、洗礼を生涯に一回の出来事とし、洗礼の前には一定の学びの期間を設け、イエス様に従って生きる強い思いがあるかどうかの確認をしました。その上で、社会でどれだけ教養や身分がある人でも、教会の中においては兄弟姉妹として平等であり、私たちを愛し見守る神様こそが中心であること、それを忘れた人物を中心においてはならないことを教えました。
キリスト教は、聖書をどれくらい知っているかとか、その教えの内容にどれくらい精通しているか、といった言ったことを競うものではありません。そうした学びをするのは大切なことですが、その目的はイエス様ご自身が私たちを愛してくださっていることをしっかりと捉えるためなのです。
旧約聖書を読むのもそのためです。旧約聖書は人間の愚かさと神様の忍耐について記してあります。昔から人間は愚かな行いを繰り返しているけれど、神様は決して見捨てられず、時が来て、お約束の通り、独り子であるイエス様を遣わしてくださり、死を超えて天の御国に迎え入れてくださるために、あえてイエス様を十字架にかけられたのだ。この壮大なご計画を感謝して信じることができるようになります。
神様は私たちに洗礼を授けてくださることによって、やがてイエス様が再び帰って来てくださる日に備えさせてくださいました。そのお力によって、私たちは今、イエス様は目には見えなくても共にいてくださることを信じることができています。
私たちは日々聖書を学び、イエス様の言葉を自分のうちに取り込み、血とし肉とすることで、のびのびと自由に信仰に生きることができます。私たちは複雑なこの世にあって、常に惑わされ信仰を置き忘れてしまいがちですが、神様の恵みは決して私たちから離れることはないのです。
19日(日)はクリスマス礼拝です
25日直前の日曜日にクリスマス礼拝を行うのが
慣例なので、今年はかなり早めのクリスマス礼拝です
リーベクワイヤとこども聖歌隊が賛美してくれます
ささやかですが久しぶりに茶話会も計画しています
お近くの方はぜひお越しください
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