降誕節第1主日礼拝(2021年12月26日)
コロサイの信徒への手紙3章12-17節 ルカによる福音書2章41-52節
ユダヤ教の世界では、今でも、女性は12歳、男性は13歳で成人式を迎えるそうです。お酒が飲めるとか結婚できるとかいうことではなく、13歳になると少年は宗教的に大人の仲間入りが認められ、聖書を自分で直接読むことを許されます。そのため、少年たちは12歳になるとその準備を始めます。
エルサレムに神殿があった時代、年に3回開かれる大きなお祭りに合わせて巡礼に行くことも行くことも大切な準備でした。
12歳になったイエスが両親と一緒にエルサレムに巡礼したのもそのためでした。旅は滞りなく終わり、後はナザレに帰るだけ、という時に事件は起こりました。ヨセフとマリアは気のゆるみからか、イエス様を見失ってしまったのです。
この頃の巡礼の旅は、同じ地域から旅をする親戚や友人たちが団体となって移動しました。強盗に襲われないための知恵だったのです。ですからマリアとヨセフは自分達の近くにイエス様がいなくても、誰か近所の人か幼馴染と一緒に歩いていると思ったのでしょう。12歳といえば思春期の始まり、独立心旺盛な年頃ですから、親と一緒にいなくても平気で過ごしているのだろうと思ったかもしれません。並外れて頭の良い息子が、まさか迷子になっているとも思わなかったでしょう。
マリアとヨセフは一体何が起こったのかわからないまま、慌ててエルサレムへ引き返したのです。利口な子と言ってもまだ12歳、どうして目を離してしまったのかと、二人は自分たちを責めたでしょう。事故に遭っていないだろうか、人攫いに攫われていないだろうか、危険なところに入り込んでいないだろうか、まる一日かかった道を、後戻りしながらイエス様を探す旅は3日に及びました。親としては生きた心地がしなかったと思います。
ヨセフとマリアがようやくイエス様を探し当てたのは神殿の境内でした。あろうことかイエス様は何食わぬ顔で学者たちに囲まれて座り、話を聞いたり質問したりしていたのです。しかも学者たちは「こんな賢い子どもは見たことがない」と驚いていました。その光景を見たヨセフとマリアは、息子が見つかったという安堵感以上に、強いショックを受けことでしょう。
その時の状況を想像すると、両親は「うちの息子がご迷惑をおかけしました」と何度も何度も頭を下げ、イエス様が何かを言おうとしてもそれを妨げ、あっけに取られる学者たちの前から退き、イエス様を引っ張って神殿の外に出たのではなかったでしょうか。
一息ついたマリアは、親の勤めとして、ここは一つ叱っておかなければ、と思ったことでしょう。実際にかなり怒りが込み上げていたのかもしれません。「なぜこんな勝手な振る舞いをしたのですか。お父さんもお母さんもどれほど心配したと思っているのですか。まだまだ子どものあなたが、神殿にいる偉い先生方に生意気な口の聞き方をして、どういうことなのですか。」
しかしイエス様はすでに神の御子としての思いが芽生えていました。神の子として今、自分が何を知っておくべきか、今の時代、律法はどのように解釈され、どのように守られているのか、地方の町ナザレにいては吸収できないことを知っておかなければならない。そのように思われたのではないでしょうか。それは両親のご機嫌を伺うよりもイエス様にとって大切なことだったのです。
ですからイエス様は「どうして私を探したのですか」と言い返してキョトンとしています。その上、心配して三日の間、食べ物も喉を通らないくらいだった両親に向かって「私が父の家、神殿にいるのは当たり前だと知らなかったのですか?」と言い放ったのです。
この時のことを聖書は「両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」と記しています。しかしマリアとヨセフの心に、イエス様は神様からの預かり物なのだという分別が蘇ってきたのかもしれません。「この子は私たちの子として育っているけれど、普通の子ではなかったのだ」そんな思いが与えられ、怒りは引いていきました。特にマリアは、「もうあれこれ言うまい、イエスがこの先何をしようとも、心の中に納めておこう」と決めました。
両親の心の動きをイエス様も見てとられたのでしょう。それ以上何も言わず、促されるままに素直にナザレに戻り、時が来るまで親孝行な息子として過ごされたのでした。
イエス様が起こした行動は、親の立場で言えば、とんでもないことですが、これも神様の計画だったのだと考えて視点を変えてみますと、神様の思いが、非常に感じられる記述でもあります。
私たちは平穏な信仰生活を送っている時には、自分は神様に探されて見出されたものである、という意識を持ち続けることができます。しかし、ひとたび日常がピンチに襲われるとオロオロ、ウロウロ、平安が失われてしまいます。しかし私たちがイエス様を見失う時、神様などいないと心が叫ぶ時、私たちが迷うことのないように、神様は教会を与えてくださり、「ここに帰って来ればイエス様に会えるんだよ」と礼拝堂を備えてくださいました。
今まで120年間、飯田教会の礼拝堂は幼稚園の園舎の一部として、幼児教育の場としても用いられてきました。しかし今から数年後には、自分達の礼拝堂として、いついかなる時でも心置きなくイエス様と出会い、神様と語らうことができる場所として備えられようとしています。そしてそれが実現するために、今まで以上に私たちの信仰が試される時が来ているのです。
2021年もあと数時間となりました
今年もコロナに翻弄される1年でした
明るい兆しが見えてきたかと思えば第6波の到来!?
厳しい状態に置かれている方も少なくないと思います
長い戦いが続きますが
可能な限り感染対策をしながら
この試練の先に、新しい喜びが待っていると信じて
前に進んで参りましょう
みなさま良いお年をお迎えください
1月1日は新年礼拝はありません
1月2日お会いしましょう
年明けの土曜学校 元気なみんなと会えますように |
0 件のコメント:
コメントを投稿