2022年1月5日水曜日

救い主の言葉(日曜日のお話の要約)

聖餐式・降誕節第2主日礼拝(2022年1月2日)
エフェソの信徒への手紙1章4-7節 
ヨハネによる福音書1章14-18節

 本日はヨハネによる福音書1章4節からです。イエス・キリストの降誕について、実に短く「言葉は肉となって私たちの間に宿られた」と記されています。ここには羊飼いも東の国の博士も登場しませんし、イエス様の母マリアすら出てきません。それでもこれは紛れもなくイエス様の御降誕を表す御言葉なのです。


 一般の方は、神様は清められた場所や醜いところにはおられない、と考えるでしょう。ユダヤ教においても、人間はあまりに汚れているので神を見ることに耐えられないと思われ、神様を見たものは死んでしまうと信じられていました。しかしイエス・キリストはご自身の方から進んで汚れた世界の真っ只中に降誕してくださり、直接人間に手を差し伸べてくださったのだ。神ご自身が人の世に人となって宿ってくださったのだ、とヨハネは伝えるのです。


 ヨハネ福音書を記録したのはイエス様の12弟子の一人、ゼベタイの子ヨハネと言われています。彼はイエス様が天に帰られた後も、かなり長生きして宣教活動を行なったと言われています。ヨハネはイエス様の十字架の死と復活の目撃者でしたから、その生き生きした証を聞いた多くの人々もまたイエス様を信じたことでしょう。ヨハネは地中海沿岸に次々と立ち上がったキリスト教会の指導者的な役割を晩年まで果たしたと思われます。


 ヨハネたち指導者によって教会は大きく成長してきましたが、彼らには、一つ心配事がありました。イエス様は復活した後に天に帰られる時、必ずまた戻ってくると約束されました。しかし、時が流れるにつれ、人々は次第に「いくら待っても戻ってこられない」と嘆き始めたのです。イエス様から直接教えを受けた人々は、厳しい迫害によって殉教したり寿命を迎えたりしてどんどん少なくなっていきました。こうしたことが教会に集う人々によくない影響を与え始めたのです。

 多くの信徒たちは明日にでもイエス様が天からお帰りになって、悪い人たちをさばき、社会に秩序をもたらしてくれると信じていました。それまでの間は大変だけど頑張ろう、と思っていたのです。しかし、様々な迫害があって、命を落とす人々が出ても、イエス様がお戻りになる気配がないため、教会の中で信仰がぐらつく人が出始めたのです。中にはイエス様は立派な人物だったけれどただの人間だったに違いない、と考える人まで出てきました。


 そこでヨハネは、イエス・キリストという方は私たちの想像を超えた永遠の昔から存在されていながら、今、私たちと共におられるのだ、ということを壮大なスケールで語り始めました。1章1節に「初めに言があった」という書き出しを用いて、読む人たちに創世記の天地創造を思い起こさせようとしたのです。

 あなたがたはこの世が造られる先から存在していた神の一人子、光の光であるイエス様を信じることによって、神様に愛され新しく生まれ直したのだと伝えます。そしてこれから先、イエス様を理解しない人が権力を握ると、酷い迫害に合うかもしれない、それでも、あなたたちは、イエス様に対して従順であり続けなさい。と教えたのです。


 この、「イエス様がもどってこない問題」について、同じ12弟子の一人、ペトロが書いたとされるペトロの手紙第二の3章にも、「一日は千日のようで、千日は一日のようです」という御言葉が記されています。この御言葉は神と人とでは時間の感覚が違うことを教えています。神の前では、私たちの「長い」は一瞬であり、油断せず心を引き締め、神に愛されている人として相応しい振る舞いをし、信仰を失って心が折れたり闇に囚われたりするものが出ないように諭したのでした。

 

 また、伝道者パウロは、宣教の苦難の中にあった時、フィリピの手紙1章の「この世を去って、キリストと共にいたい」と記しました。パウロは自分が死ぬことでキリストが宣べ伝えられるならそれでよし、もし生きて働く方がよりキリストの役に立つならそれでよし、という重要な使命感の中に生きていたのです。

 パウロは「クリスチャンにはこの世で大きな役割が与えらえている」と宣べ伝えました。その使命とは神様であるイエス様を愛の方だと証することと、その愛の教えを自ら実践し、自分の言葉で伝えることだと教えました。


 新約聖書の書き手たちがこぞって記すのは、私たちの思いと神様の計画とは異なる、ということです。しかしどれほど時間の感覚にズレがあっても、神様は失望する私たちをただ黙って放っておくのではなく、そこには神様のお考えがあるということ、そして私たちにそれを信じて欲しい、とおっしゃる方なのです。それを信じる「神と私の信頼関係」こそが信仰である、ということなのです。

 詩篇84編には「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」と書かれています。これは神と共にある時間の幸せや充実感を表しています。この世にあっても、天の国にあっても、神様と過ごす時間はなんと幸せなのだろう。虚しく長く生きるよりも神様の元にいられる1日の方がはるかに素晴らしい、と熱烈なラブソングのように神様を慕っています。この思いを私たちも新しい年にもう一度抱きたいと思います。


 思いがけないことがあっても、私たちには救い主の言葉に立ち返ることのできる幸いを、この1年も覚えて参りましょう。



ラッパを口に当てているシルエットは
人形劇の盛んな飯田の
シンボル的なキャラクターです
毎日冷え込みますが
お天気はまずまずの日が続いています

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