主の洗礼(顕現後第1)主日礼拝(2022年1月9日)
イザヤ書43章1-4節 ルカによる福音書3章21-22節
本日は「主イエスが洗礼を生けられる」お話です。神の御子であるイエス様が、人間の私たちと同じように洗礼を受けられたということの意味を聖書から聞いて参りましょう。
イエス様が洗礼を受けられた出来事は4つの福音書全てに記されていますが、ルカの「民衆が皆洗礼を受け」という言葉には少し驚かされます。民衆が皆、洗礼者ヨハネから洗礼を受けていたという描写です。この時、洗礼者ヨハネがユダヤの人々に伝えたメッセージは、「もうすぐこの世が終わる」という意味に近いものでした。当時のイスラエルは巨大なローマ帝国との戦争に敗れ、属国とされていました。ローマ帝国は広大な国土で内乱が起きないよう、領民たちを上手に従える方法を持ってたようです。ローマは自分たちの領土の土着の宗教にはある程度寛容でしたが、イスラエルは宗教的に高いプライドを持っていたので、屈辱的な出来事も多かったのです。
イスラエルの中心ともいうべき神殿の祭司たちは、聖職者であると同時に政治家でもありましたから、ローマとの交渉ごとに当たる役目も負っていました。彼らは国を守るため、また自分自身を守るため、妥協をしたり表面だけ取り繕ったりといったことも行いました。国民を代表して神様に仕える立場でありながら、その内実はかなり堕落していたと思われます。
この祭司たちと同じようにユダヤ社会で権力を握っていたのがファリサイ派の人たちです。神様からいただいた律法を厳しく守り、人々に教える役割を担っていました。彼らは非常に高いレベルの教えを説き、一般民衆を見下すところがありました。
その他に、聖書の記述には登場しませんが、ファリサイ派と並んで大きな力を持っていたユダヤ教グループにエッセネ派と呼ばれる人々もいました。彼らは俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより、宗教的な清さを徹底して追及しました。その生活は厳格で、日常の中で自分の欲望をコントロールすることを訓練と捉えていました。また「神殿に行かなくても神様に仕えることができる」という考えは非常に特徴的でした。洗礼者ヨハネは、考え方や身につけているもの、食事などの記述などから見て、このグループに属していたのではないかと考えられます。
ユダヤの民衆は、忠実に神殿の儀式を守り、子どもに宗教教育を施し、祭りなども積極的に行なってはいましたが、祭司やファリサイ人の醜い面も知っていましたから、心から尊敬できず、かといってそんな自分は不信仰だと思っていました。そんな時、洗礼者ヨハネが叫んだ「悔い改めよ」という言葉は強烈な一言に引き寄せられ、ヨルダン川の荒れ野に集まりました。
そこで語られるのは「良い身を結ばない木は切り倒される」という厳しい教えでした。しかし、新しく神の民として生きなおそうと徴税人も兵士も集まり、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。ただ、せっかく洗礼を受けても、綺麗さっぱり自分の地位や名誉を捨てされるものではなかったでしょう。
多くの人々が洗礼を受けてグループの人数が増えれば増えるだけ、早めに洗礼を受けた人が後から受けた人に先輩風を吹かせるようなこともあったのではないでしょうか。それによってせっかくの悔い改めが台無しになってしまうような仲違いもあったかもしれません。
そこでルカはさりげなく、イエス様が最後の最後になって洗礼を受けた、と読み取れる書き方をしました。「民衆が皆洗礼を受けたその後でイエス様が洗礼を受けた」。それは洗礼を受けることの早い遅いが重要なのではなく、洗礼を受けるタイミングにも神様のご計画があると示すのです。これはルカ福音書にしかない記述です。
ここには他の福音書にないもう一つの言葉がありますそれは「イエス様が洗礼を受けて祈っておられた」と記していることです。イエス様は、救いの御業を始まれられるまさにその時、洗礼を受けた次の瞬間から、私たち洗礼を受けた人々への道しるべになるべく、父なる神様に祈りを捧げられました。
イエス様の祈りを大切にされるお姿は全てを終えて天に戻られるまで決して変わることはありませんでした。弟子を決められる時、エルサレムに上るその時、十字架の死を目前に苦しまれた時、そして十字架の上でさえも、父なる神様との会話を続けられ、その信頼は揺らぐことはありませんでした。そしてイエス様の最後の祈りは「父よ、わたしの霊をみ手に委ねます」だったのです。
ただ、いくら祈ってもイエス様は十字架の死を免れることはありませんでした。何も知らない人から見るなら、これほど無力なお祈りもないかもしれません。神様は全てを見て、聞いて、知っていながら何もなさらないなら、なんのために祈るのか。馬鹿馬鹿しいではないか。そう思う人がいても不思議はありません。しかしイエス様はどれほど希望を見いだせない困難な状況の中においても、神様の御手に守られているのだということを、お側にいるの弟子達に、そして、遠い未来にイエス様に繋がる私たちに示されたのです。
私たちは手紙や挨拶の中で「祈っています」という言葉を頻繁に使います。その祈りの一つ一つが、全知全能の神様に聞かれていると信じ、自覚を持つ必要があります。祈りの言葉は、父なる神様との人格的な交わりの会話であり、私たちのわがまま勝手を叶えてくれるおまじないなどではありません。この人格的な交わりこそ祈りの最も大切な意味であり、私たちが信仰的に成長した生き方をする為には、どなたに向かって語りかけているのか、常に意識する必要があるのです。
いつ、いかなるところにあっても、神様との対話は、信仰者に与えられている恵みです。もちろん頭の中にいきなり神様のお声が響いてくるようなことはありません。しかし正しい道を選ぶ時、神様は私たちの心に豊かな平安を与えてくださいます。そして聖書の御言葉を通してさらに確信を与えてくださるのです。
私たち一人一人は、立派な人格を手に入れようとあがく必要はないのです。自分の不完全さが情けななくなる時も、神様に祈り、主イエスをお手本として何度でも再スタートを切ることができるのです。
先日の土曜学校で作る予定だった ソックス・スノーマンです 実は昨年の1月に作る予定だったのですが コロナでお流れ 今年もやはりコロナ感染拡大のため 土曜学校自体できませんでした 2月は開催できますように! 子ども達のためにも祈りを重ねます |
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