2022年1月31日月曜日

悲しい程の労苦(日曜日のお話の要約)

顕現後第4主日礼拝(2022年1月30日)
イザヤ書6章1-8節 ルカによる福音書5章1-11節


 本日は、漁師のペトロがイエス様に招かれて弟子になる出来事を読んでまいります。ペトロという名前はイエス様からいただいた名前で、彼はもともとシモンと呼ばれていました。本日の出来事も聖書にはまだシモンと書かれていますが、ペトロという名前で統一してお話します。

 本日の聖書箇所の少し前、イエス様はペトロの家で彼の姑を癒すという奇跡を行われます。イエス様が姑の枕元に立って熱を叱りつけると、あっという間に彼女は癒されて起き上がり、人々をもてなしました。それを見た近所の人々は多くの病人を連れてきます。イエス様はそれらの病人に一人一人手を置いてお癒しになったのです。その業は朝まで続けられました。しかしペトロがこれについてどう思ったか、ここには一切触れられていません。

 イエス様はこの後、いっときカファルナウムを後にしてユダヤの諸会堂に行って宣教されますが、ペトロがついて行ったという記述はありませんので、ここで一旦、イエス様とペトロの繋がりは終わったように見えます。

 しかしイエス様は再びガリラヤ湖の岸辺に戻ってこられます。するとその土地の人々はイエス様を覚えていて、お話を聞こうと押し寄せてきました。そこでイエス様はそこにいた漁師にご自分を乗せて岸から少し漕ぎ出すようお頼みになりました。その漁師がペトロだったのです。

 ペトロは疲れていましたが、かつて姑を癒していただいたことを思い出したのか、イエス様のご希望通り舟を漕ぎ出すことにします。ただ、イエス様の話が終わるとさっさと帰ろうとしました。ところがイエス様はペトロに向かって「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命令をなさいました。

 ペトロは徹夜明けでイエス様の話にも付き合わされもうヘトヘトで、流石に断ろうと考えました。しかしペトロの口から出てきたのは「お言葉ですから網を下ろしてみましょう」という了解の言葉でした。とはいえ、その言葉には棘がありました。「あなたはただ舟に座ってお話をしただけですが、私たちは一晩中悲しい程、痛い程に苦労しました。漁に関してど素人であるあなたの言葉に非常に困惑しておりますけれども、せっかくですから網を降ろしてみましょう。」


 ペトロがイエス様に対してどれだけ失礼な態度をとったかがよく分かります。しかしイエス様はペトロの嫌味な言葉を受け止め、忍耐し、信仰に導くために、ご命令を出されたのです。

 するとペトロの予想もしないことが起こったのです。信じられないほどの魚が網一杯にかかり、網が敗れそうになったのです。ペトロは長年この湖で漁をしてきたプロの漁師ですから、出来事の異常さに唖然となりました。こんなことができるのは神様以外おられないと気づいたペトロは、イエス様に対する呼びかけを「主よ」と変え、「わたしから離れてください」「わたしは罪深い者なのです」と頼みます。これは命乞とも取れる言葉です。

 ペトロは神であるイエス様を見下し、腹を立て、嫌味を言いました。神様を見下すことは信仰を持つものが決してしてはならないことでした。かつてイエス様はペトロの家において、運び込まれて来たたくさんの病人に一人一人手を置いて一晩中癒しを行われました。どんな病人であっても分け隔てなく癒しをお与えになり、それが徒労だなどとは一言もおっしゃいませんでした。魚がとれずに愚痴っていたペトロの脳裏に、その時のイエス様のお姿が蘇ってきました。自分はなんという方に反抗心を抱いたのか。ペトロは自分の過ちに気づき、死の恐怖を感じたのです。


 ユダヤの人々は汚れた人間が神を見れば命はない、という教えがたたき込まれていました。例えば本日読みました旧約聖書のイザヤ書には、汚れた自分が神様を仰ぎ見たのだから、死ぬしかない、と恐怖を感じる場面が記されています。つまりこれはユダヤの民が共通して持っていた恐れだったのです。

 しかし、イエス様はペトロを裁くために彼に近づいたのではありません。ペトロを深く愛され、ご自分の弟子と招くために側に来てくださったのです。イエス様がこの段階でペトロのどこをそこまで見込んだのか、私たちにはわかりません。聖書から感じ取れるペトロの性格は一本気で頼れる兄貴分のようでもありますが、単純で目先のことに振り回される傾向があるように見えます。けれども、イエス様を一途に慕い、過ちを犯したときには正直に悔い改める素直な一面も持っていました。イエス様はペトロの欠点は欠点として、長所は長所として、受け入れ、慈しみ、弟子として鍛えてくださったのです。

 こうしてペトロはイエス様によってその働きの場を湖から陸へと移します。「あなたは人間をとる漁師になる」という有名な御言葉によって、宣教の舞台へと押し出されていったのです。


 ここにいる私たち一人一人はイエス様の弟子として招かれたものです。それぞれに異なる場所からイエス様に招かれた私たちは、今同じ教会に集っています。ここはイエス様が私たちの為に選んで招き入れてくださった場所であると気づく時、この場所もまた神様を証し、労苦を厭わず、宣教をしていく場所へと変わっていくのです。



昨日もまたZOOMのみの礼拝でした。

幼稚園と敷地と建物を同じくしているため

色々と制限があります

教会の礼拝に集まるメンバーは

幼稚園の規定では「外部の人」となるので

まん延防止等重点措置が取られている間は

礼拝堂に入ることができません

牧師夫妻も簡易キットを購入して

陰性を確認してから、土曜日の礼拝の準備と

礼拝当日のみ入室しています

その後は念の為アルコールを使って清掃、清掃、清掃

最新の注意を払います

教会員の皆様にはご不便をおかけしますが

どうぞお祈りください

共に祈り、知恵を出し合って

共に乗り越えて参りましょう


礼拝堂は牧師夫妻だけですが
画面の向こうには信仰を同じくする仲間がいます

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