顕現後第3主日礼拝(2022年1月23日)
詩編19編2-5節 ルカによる福音書4章14-21節
イエス様が神の子として「霊」の力をいただき、宣教の活動を始められたのは、ご自身がお育ちになったガリラヤ地方でした。この日イエス様はシナゴークという小さなコミュニティーセンターにお入りになりました。これはユダヤの町のどこにでも見られるものでした。紀元前600年ごろユダヤの民は大国バビロニアとの戦争に負けてエルサレムの神殿は壊されました。その上祖国から連れ出され、バビロニアで生きるしかなかったユダヤの民は集会所を開きます。そこで新しい礼拝を始めたのです。そこで聖書を学び、祈り、食事をし、仲間通しのトラブル等を信仰と聖書と照らし合わせて解決を図り、コミュニティーを作って行ったのです。
のちにユダヤの人々は無事に祖国に帰ってきてエルサレムには再び神殿が再建されましたが、シナゴークは教育や集会所として各地に建設されました。
さて、この日シナゴーグでイエス様は聖書をお読みになりました。この時代に読まれていた「聖書」というのは、私たちの言うところの旧約聖書で、これを用いて礼拝が執り行われていました。その日のテーマに則して「聖書にはこう書いてある」と3人ぐらいの男性がその場で指名されて発表し、最後に指名された読み人がまとめのような形で説教として伝えるのです。全て即興です。日頃からきちんと学んでいなければとても対応できるものではありません。
まだ慣れていない若い男性の場合、緊張して舞い上がってしまったり、正しく解釈できなかったりすることもあったでしょう。しかし、なぜそこが選ばれ、そこが語られるのかきちんと向き合うことで、神様の存在と自分の生き方を考える訓練であり、大切な時間だったのです。
イエス様がガリラヤの会堂でこれを行った時、聖書箇所の選びも、暗誦も、その解釈も見事であり、イエス様の参加する礼拝に出席した人々は感謝に満たされ、イエス様を尊敬しました。
お育ちになったナザレで安息日を迎えたイエス様は、いつものとおり会堂に入り、聖書コーナーを任されました。「預言書イザヤの巻物」と書いてあるのは、この時代の聖書は巻物に書かれていたからです。イザヤ書を朗読するのは前もって決まっていたようです。
ナザレの人々もまた、イエス様の言葉に大いに感動しました。イエス様の語られる言葉を聞いて、神様はここにいると感じることができたのです。ただ、聞いていた人々は、イエス様の幼き日を見ていた人々でした。まだ幼かったイエス様が父ヨセフの事の手伝いをしていたことも知っています。
そのイエス様から、「本当の神様の働きの為に、これから私の教えに従っていくのだ」という強いメッセージを聞いたのです。ふと我に帰ったナザレの人々は、大いに迷い戸惑い始めました。
イエス様の幼き日をよく知っているからこそ、「あんたは今、私たちの前で偉そうに言っているけど、本当に神様から遣わされて話しているのか」そう思えて、信じられない人が出てきたのです。
これはよくあることかも知れませんが、指導者泣かせでもあります。どんな偉大な人物でも、身近な人にとっては大抵思いつくことなのでしょう。
しかしイエス様を一番困らせたのは、ナザレの人々の検討はずれな期待でした。ナザレの人々は、イエス様がこのままナザレに留まり、活動してくれればいつでも奇跡も起こしてもらえるし、自分の街に偉い人物がいるのだと自慢もできる、と考えました。ですがイエス様はずっとナザレに留まるおつもりはないことを人々は感じ取ってしまったと考えられるのです。
イエス様がナザレの人々に求めたことは、ご自身に対する信仰でした。イエス様の弟子となってナザレを出て宣教活動をするもよし、ナザレに留まりつつもイエス様の行動を祈りを持って支えるもよし。イエス様を知り神様を知ることがナザレの人々への招きであり、イエス様がお教えになりたいことでした。
ところがナザレの人々は、そう言った思いを理解しようとはしませんでした。それを察したイエス様はナザレの人々に失望し、旧約聖書から引用してその間違いを指摘し、厳しい言葉を投げかけました。すると人々はイエス様をナザレから出してはならぬと殺しにかかったのです。あまりに腹が立って、理性も信仰も吹っ飛んでしまったのでしょう。イエス様がナザレの批判を他の土地に広めないように、という思いもあったのかもしれません。
しかし、「人々の間を通り抜けて」立ち去られます。不思議な書き方ですが、正面突破でナザレの人々の間を堂々と通って、ご自身の目的のために、次の場所へ赴かれたのです。
イエス様はナザレの人であれ、どこに住む人々であれ、神様の豊かな愛を伝え、神様の国へと導こうと願っていました。たとえ人々が死の淵に追い詰められ、神様に見捨てられているのではないかと思う時であっても、神様はあなたを愛し、神の国へと導いてくださることを教えようと願われて、十字架の道を歩まれたのです。
コロナが蔓延し、遠い昔から続けられたきた礼拝の形が損なわれ、ネットを活用してようやく共に礼拝をする私たちですが、イエス様のみ言葉を信じ平安を得て参りましょう。何があってもイエス様の導きの中にいる限り、私たちの信仰は決して損なわれません。これからも共に「キリストに聞く者」として続けて参りましょう。
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