2022年1月17日月曜日

最初の奇跡(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2022年1月16日)

コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4-11節 ヨハネ福音書 2章1-11節


 本日の福音書の出来事は、ガリラヤの西の「カナ」という場所で起きました。イエス様と弟子達、そして、母マリアが婚礼の宴会に招かれていました。ユダヤの風習では結婚の宴会は時には一週間続きました。酒やご馳走が途中で足りなくなれば結婚そのものにケチが付きますから、相当な量を用意する必要があったのです。

 この出来事が宴会の何日目だったのかはわかりませんが、母マリアは、葡萄酒が足りなくなったことに気づきました。このままでは花嫁も花婿も困ってしまう、何とかしてあげたい、そう考えてイエス様に相談したのでしょう。
 しかし、マリアからこのことを聞かされたイエス様は、そっけない態度をとります。母親に向かって「婦人よ」と呼びかけ、「わたしとどんなかかわりがあるのですか」と言われます。さらには「わたしの時はまだ来ていません」と言い切っています。母マリアの願いを他人のように突き放されたのです。

 このやりとりは、さまざまな学者が研究しており、「婦人よ」と言う呼びかけの言葉は、イエス様の最大限の丁寧な断り方とまで言われます。しかし断ったことには変わりません。
 イエス様がここで言われた「私の時はまだ来ていません」という「私の時」とは、「救い主として人々を救う時」という意味です。イエス様は飢えた人々、貧しさに苦しむ人、自分の弱さに絶望している人、罪に苦しむ人々を救うために、神様の手によって地上に送り出されたのです。イエス様は、どんな時もまず神様のご計画に従順に従う、という決意を固めておられました。「今、奇跡を行うのは神様の御心ではない」とお伝えになりたくて「時ではない」と言われたのです。
 それを聞いたマリアは、母親だからと言ってイエス様を自由に操れるわけではない、と気がつきます。とはいえ、彼女はイエス様が奇跡を行う方だと信じていましたし、新郎新婦が悲しむのを放っておかないと確信していました。そこでその場にいた召使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と頼んだのです。

 するとイエス様は召使いたちに向かって「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。その場には、ユダヤの風習に従って清めに使う水を溜めておく水瓶が6つありました。1つ80リットル以上入る大きな瓶です。水道などない時代ですあら、かなりの労力でしたが、召使い達はその命令に従いました。そしてその水は世話役を唸らせるような、この世で一番おいしいぶどう酒へと変わったのです。
 ここで「イエス様はなぜお考えを変えて奇跡を行われたのか」と詮索することはあまり意味がありません。ただ、イエス様は「壮大な神様のご計画の前では、こんな披露宴など取るに足らない」と上から目線で判断する方ではありませんでした。今ここに新郎新婦の幸せを必死になって神に祈る人がいること、そして、神のご命令に従って素直に奉仕する人がいたことが大切だったのです。

 このお話から私たちが覚えておかなければならないのは、イエス様は私たちがどれほど必死に祈っても、こちらに都合よく救いの手を差し伸べらることはなさらない、ということです。時には私たちが「なぜ今それを?」と思うような命令をなさり、「疑わないで私に従いなさい」とおっしゃるのです。
 ここでは、清めの水瓶6つに水を汲むようにと召使いたちに伝え、彼らはただただ言われた通りに水を汲みました。この素直な行為が、結婚の宴を支え、新郎新婦の幸せを守ったのです。

 この出来事は最初の奇跡として教会の歴史に刻まれました。母マリアとイエス様のやりとりに目が行きがちな箇所ではありますが、私はこの無名の召使いたちに時々自分を重ねます。ただ水を汲むことしかできなかったけれど、イエス様に素直に従った彼らは、礼拝に集う私たちのことだと思うのです。大きなことはできないかもしれない。それでもイエス様のご命令に疑うことなく従えば、誰かの幸せを守ることができる。そんな素朴な信徒でありたいと願うのです。


教会関係の方からクリスマス前に
立派なシンビジウムの鉢をいただきました
一度咲けば長持ちする花だとは知っていましたが
いまだに華やかに咲いています
温かすぎると花もちが悪いらしいので
室内でなく、玄関に置いてます
ただ、この場所は夜間がマイナス近くになるので
君子蘭も一緒に置いて、タイマーでヒーターを入れます
NHKテキスト「よくわかる栽培12か月・シンビジウム」も買いました
さて、うまく育てられるでしょうか

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