顕現後第3主日礼拝(2021年1月24日)
詩編62編6-7節 Ⅰコリント7章29-31節 マルコ1章14-15節
詩編62編6-7節 Ⅰコリント7章29-31節 マルコ1章14-15節
聖書の世界は古く、歴史好きの方でも簡単には理解し難いものがあります。旧約聖書の一番古い記述は今から4000年も前の出来事で、イエス様がお生まれになった時代ですら2000年前です。衣食住も、気候風土も、全て違います。
そして最も理解しにくいのが宗教観です。古代イスラエルは国民一人一人が神の民であり、一人一人が神に守られ従いながら生きる、という強い信仰を持っていました。リーダーが信仰から離れて堕落し国が衰退し、民衆が嘆きの中にあるとき、必ず新しいリーダーが神様によって起こされ、「真の救い主、メシアを待つ信仰を捨てずに生きて行こう」と呼びかけるのです。そうして国は持ち直し人々の信仰も蘇る、そんな出来事が旧約聖書には繰り返し繰り返し記録されています。
イエス様がベツレヘムの町に誕生された頃のイスラエルは、広大な領地を持つローマ帝国の直轄地でした。ローマは支配国に対して比較的寛容で、自治も宗教の自由もある程度与えていましたが、独立心が強く、他国の神々を認めないイスラエルの中からは、異国の文化にかぶれることを嫌って革命を起こそうとする人物が度々現れ、処刑されました。
ローマを本気で敵に回せばおおごとです。ですからイスラエルの政治家たちは聖書の教えを都合よく解釈して民衆を抑える方法を取ろうとしました。しかし、この政治家たちというのが神殿の祭司、ファリサイ人、聖書の教師であったため、宗教は腐敗していきます。真摯に信仰を貫こうとする者にとっては耐え難いごまかしであり、何とも言えない堕落した感じと抑圧感が社会を覆っていたことでしょう。イエス様より先に活動を開始していた洗礼者ヨハネは、正しく信仰に生きることを説いたため、ヘロデ王に捕らえられ、処刑されてしまうのです。
そんな中、30歳になったイエス様は新しいイスラエル、新しい神の国を作るために動き出されます。しかし洗礼者ヨハネが処刑された直後、中心都市エルサレム近くで活動を行うのは、無謀な行動とも言えました。そこでイエス様は首都から遠く離れたガリラヤ地方を拠点として宣教を開始されました。
ガリラヤ地方はイスラエルの北部、ガリラヤ湖を中心とする地方で、首都エルサレムから110キロ程離れており、大人が急いで歩いても2日~3日かかる距離にありました。ガリラヤ湖は漁獲量が多く、北と南を繋なぐ交通路として古くから栄えていたため、旧約聖書にも登場し、その形から楽器の琵琶を意味する「キネテレ湖」と呼ばれていました。
しかしイエス様の当時のガリラヤは異文化が入り込んで久しく、そこに住むユダヤ人は子どもの頃から聖書を学んでいるとは言え、約束のメシアを信じて耐え忍んで待つよりも、自分たちが武力によってローマを追い出したい、と考える人も多い、血の気の多い場所でした。
そのような土地を、イエス様は宣教の業の拠点としてを選ばれました。本日読みましたマルコ福音書14節では「ガリラヤに行き」と記されています。マタイ福音書では「ガリラヤに退かれた」と記されていますが、これは、マルコとマタイの考え方の違いです。マタイはガリラヤで宣教を始めることを「一時的な退却」と捉え、マルコは「神の御意志に従って自らの意思で行かれた」と捉えるのです。
4人の漁師をするにしても、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネにあっさりと「私について来なさい」呼びかけ、彼らが素直に、すぐに従っている姿を描いています。ルカ福音書に描かれているように「魚が獲れすぎて怖れ、イエス様を崇める」というシーンは記録されていません。マルコはそういったエピソードは自分の記録には不要だと考えたのでしょう。
ドラマ的には物足りないかもしれませんが、そこにこそ、マルコの伝えたい「イエス様像」があるように思えます。ガリラヤのような、やりにくそうな場所からあえて宣教活動を開始するというのは、ただ、神ご自身が、その圧倒的な力によって、宣教の業を始められたことを示すためだったのではないでしょうか。
今の日本には宣教のやりにくそうな場所の方が多数存在します。古い因習に縛られている、頑固、その日その日の生活に精一杯、お金こそ全てだと思っている、神も仏も祟られない程度にちょいちょいと拝む、そのような場所です。神様の目からご覧になれば日本全体がガリラヤのように見えるかもしれません。
しかしそんなガリラヤにイエス様は赴かれ、宣教を開始されるとすぐに主力となる弟子を見極められて召し、集められたのです。これが、神の約束、神の業、神の力なのです。
その同じ神の働きが、私たちの集うこの飯田の町にも、飯田教会にも、幼稚園にも、そして私たち一人一人の上にも働いているのです。
今、私たちの世界は新型コロナという病に踏みにじられ、礼拝さえ自由に行えません。神様への信仰を失い教会離れを起こす人々が、これから増えていくかもしれません。そのような時代に、私たちはイエス様の召し出しに応えて、信じるものとされたのです。
今私たちの魂は厳しい状態に置かれ、異邦人のガリラヤに住んでいるようなものです。しかしどんな場所、どのような人にも、神は近づいてくださいます。今おかれている状況も、神様が与えて下さった道として、決してくじけず、体は別々のところで礼拝しても、心は一つにして歩んで参りましょう。
この日曜もスカイプのみのリモート礼拝でした
7人の方が参加してくださり
礼拝後は短い時間、オンラインで
おしゃべりすることもできました
これはこれで新鮮でした
もちろん直接会えるに越したことはないのですが
今はこれで頑張りましょう
まだまだ使いこなせる方は少ないので
皆さんに説教要約と週報をお送りしました
体は離れていても心は繋がっていたいですね
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