顕現後第2主日礼拝(2021年1月17日)
サムエル上3章7-9節 詩編139章1-9節 ヨハネ福音書1章43-51節
本日はヨハネによる福音書から、イエス様が最初の12弟子たちを招くところを読んでまいります。ペトロやアンデレに続いて今日登場する2人はフィリポとナタナエルです。
フィリポはガリラヤ地方のベトサイダの出身でした。ベトサイダという町はローマの支配下にあって、宗教も文化も混ざり合った不信仰な町でした。しかし全ての人が信仰を捨てた訳ではなく、少数ですが、神を信じ信仰に生きようとする人が存在していたのです。そのうちの一人がフィリポだったということでしょう。
もう一人ナタナエル(別名バルトロマイ)は、同じくガリラヤ地方のカナ出身で、フィリポの友人だったと思われます。フィリポは友人のナタナエルに、救い主イエス様に出会って弟子として招かれた喜び伝えようとしたのです。フィリポはイエス様を紹介する時「預言者たちも書いている方」と言います。これはつまりメシアのことです
メシアが現れた、と聞いたナタナエルは一瞬喜んだでしょうが、「ナザレの人で、」の言葉でがっかりします。ナザレは旧約聖書には一度も登場せず、偉人が出るような由緒ある町ではありません。旧約聖書の知識の豊富なナタナエルは、本当のメシアがナザレから出るはずがない、と思い込んでいて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と反論します。
フィリポは友人のそっけない言葉にむっとしたかもしれません。しかしそこは我慢して「来て、見なさい」と誘います。イエス様が神様であることを相手に十分に説明できなくても、誘う事をやめない。これは伝道の基本です。そんなフィリポの熱意に動かされたナタナエルはとりあえずイエス様にあってみることにしますが、その時すでにイエス様はナタナエルをご覧になっていました。
イエス様は、ナタナエルを見て、「彼はまことのイスラエル人だ」とおっしゃいます。その証として、イエス様はナタナエルが、いちじくの木の下にいるのを見たからだとお答えになります。
「いちじくの木の下」にいたというのは、聖書を学ぶものは「いちじくの木の下」で学ぶ、という当時の風習を表しているそうです。聖書に記された人間の醜い罪の記述から目をそらさずに読み、自らの罪についても思い巡らし、メシアを期待し続ける、そんな時間を進んで確保するのです。異邦人の多いガリラヤ地方でそのような生活を送っているユダヤ人は少なかったでしょう。
イエス様が言われた「あなたはいちじくの木の下にいた」という言葉は「あなたは苦労しながら自分を律して聖書を学んでいる、わたしはそれを見ていたよ」という意味なのです。それに気づいたナタナエルは、それまでのイエス様に対する懐疑的な認識をかなぐり捨てて「あなたは神の子、イスラエルの王です」と信仰の告白をします。
するとイエス様はナタナエルに「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」とおっしゃいます。これはイエス様が神様と人との架け橋となられる、その御生涯を予告しておられるのです。つまり、わたしが招く弟子たちはイエス様が神の子であることの証人となる、という意味です。
本日の二人、直感的なフィリポは、自分の信じた方を否定されても、諦めずに友人を御前に誘いました。ナタナエルは聖書を忍耐強くコツコツ学んで旧約聖書の知識からイエス様に導かれました。全く違う性格を持つ二人であることがわかります。しかし大切なことは二人ともイエス様が自ら近づいて声をかけてくださった、ということです。イエス様は個性豊かな人々を選んで声をお掛けになり、ご自分の弟子となさいました。それは今の時代も変わりません。
今の時代も、教会という群れは、信徒さん一人一人の賜物でが大切です。豊かで目立つ賜物を持つ信徒さんが高く評価されることがありますが、もちろんそれだけでは教会は決して成り立ちません。
今、コロナ禍で様々な活動が制限されています。大きな集まりや活発な行事はできません。「なぜ神はこのようなことを許しておられるのか」と悩みムルしみ、答えが出ないような出来事が続いても、地道な働き、地道な学びをやめてはいけないのです。一人一人が知恵を尽くし、力を尽くし、真摯に取り組むその心や姿を、イエス様は見ていてくださいます。
詩編139編には「主よ、あなたはわたしを極め わたしを知っておられる」と記されています。私たちの心の奥底まで神様が、イエス様は知っていてくださるのです。
何より、イエス様は、私たち一人一人が「イエス様と出会った」
」:と思う前から、既にその眼差しを注いでくださっています。私たちも、どんなことがあっても、神様に見捨てられることはないと信じてまいりましょう。キリストとの出会うということは、すでに神様の目が、私たちの心を知り、招き、導かれている証なのです。
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