主の洗礼(顕現後第1)主日礼拝(2021年1月10日)
創世記1章1--5節 使徒言行録19章1-7節 マルコ福音書1章9-11節
使徒パウロが伝道旅行のため地中海沿岸の都市エフェソを訪れ、そこに住んでいる「イエス様の弟子」と呼ばれる人々に会ったときのことです。パウロが彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねてみると、彼らは聖霊なる神の存在を知らず、彼らは「聖霊ってなんですか」と答えました。
そこでパウロがさらに「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネの洗礼です」と答えます。このヨハネとは、ヨルダン川で民衆に洗礼を授け、のちにヘロデ王に殺された洗礼者ヨハネのことです。
ヨハネがヨルダン川で洗礼を始める以前にも、もともとイスラエルには洗礼の文化がありました。異邦人をユダヤ教の一員として受け入れるために汚れを清める儀式の一部として行われたのです。
洗礼者ヨハネはこの洗礼にさらに意味を加えました。「間も無く救い主が登場して新たに神の国を建設されるが、このままではユダヤ人であろうとなかろうと神の国には決して入れない。だから今、悔い改めて神の赦しを得る必要がある」と強いメッセージで呼びかけたのです。これが洗礼者ヨハネの洗礼でした。
しかしパウロは「洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼は大切だが、それだけではない。『自分の後から来る方、イエスを信じなさい』というのが最も大切なメッセージである。」とエフェソの人々に語りました。つまりイエス様を信じて受ける洗礼こそ大切である、とすでにヨハネは語っていたのだ、と説いたのです。
その話を聞いたエフェソの信徒たちが「主イエスの名において」洗礼を受けた時、聖霊なる神が彼らの上に降り、霊の賜物が与えられたのです。これが今の私たちにつながる、新しい洗礼の意味なのです。
話が前後しましたが、本日の福音書は洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けた場面です。イエス様はガリラヤのナザレから来て、首都エルサレムの近く荒野を流れるヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。イエス様が水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにイエス様の上に降ってきました。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の御声が、天から響いたたのです。
イエス様は洗礼を受けられた時、そのことでいきなり神の子になったのではなく、もともと神であったお方が、いよいよこれから行動を起こされる、という印だったのです。しかしイエス様が行動を開始されたからと言って、この世の全てがいきなり魔法のようにパッと救われたわけではありません。
イエス様は洗礼を受けた直後、荒れ野に導かれ悪魔から誘惑を受けました。その誘惑は個人的な飢え渇きにとどまらず、自分の思うように神様に願いを叶えてもらいたいとか、神様以外のものにひれ伏せばこの世の全てを与えるとか、大抵の人間なら陥りそうな誘惑でイエス様を試します。それに対し、イエス様は聖書の御言葉を引用して勝利されたのです。
それにしても神の子なのに飢えと渇きでヘトヘトになった上で、悪魔の誘惑にさらされるというのは、随分あんまりなスタートですが、これはご苦労の幕開けにすぎませんでした。ガリラヤ地方でお育ちになられたイエス様は、権力者からは「ガリラヤから預言者は出ない」とバカにされたこともありました。イエス様が宗教学者たちを次々論破したり奇跡を行われたりして、神の御子してのお力を示されても中傷は止みませんでしたし、その働きを理解でいない家族や兄弟から頭がおかしくなったと思われ、家に戻るよう言われたりします。
イエス様の御生涯を辿ってみればみるほどに、つらいお立場を耐えながら宣教をなさったことがわかります。最後には12弟子の一人イスカリオテのユダに裏切られて捕らえられ、十字架の上で命を落とされるのです。洗礼を受けられた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神様のお声をいただき、聖霊を受けて御心のままに宣教されたのに、神様はちっとも味方になってくださらないかのように見えてしまうのです。
洗礼を受けたにも関わらず、苦難の多い人生。これは私たちの人生でも珍しいことではないでしょう。せっかくクリスチャンになって新しく歩み出したはずなのに、これ以上生きていたくないような苦しみや痛みを経験することがあります。
そこで私たちは立ち止まり、考え、もう一度イエス様の御生涯を辿るのです。イエス様は、十字架で死なれてから3日目に復活を通して、天国を指し示してくださいました。神の国があることを示してくださったのです。神に従って歩んだ苦しみの向こうに復活があり、天国へと進む道があることをはっきりと示されたことを、もう一度捉え直すのです。
イエス・キリストのように、徹底的に神様に従って生きるということは、自分は無理だと思うかも知れません。しかしひとたび洗礼を受けたなら、聖霊の賜物は既に与えられています。神様に委ね、心を明け渡すなら、自分で自分を苦しめるような「私など無理だ」という思いを、聖霊なる神が洗い流してくださいます。そして神の民として歩む道が、キリスト・イエスと共に進んでいく道が見つかるのです。
イエス・キリストが、苦難を通して私たちに神を示されたように、私たちも苦難を通して、神を証していくという賜物が与えられているのです。
未明から降り始めた雪は一向に止む気配がなく、園庭に降り積もっています。災害レベルの積雪にならなければ良いのですが。
そう思いながら眺めていると、さすが信州っこ、先生のお手伝いで雪かきを始めました。
しかしなんでも遊びにするのが子どもたち。いつの間にか滑り台の下に雪を集め始め、ウオータースライダーならぬ、スノースライダー(?)ごっこ。でも雪を固めすぎて新雪の中にバフっと突っ込む、というイメージ通りにはいかなかったようです。
年長さんたちが室内に戻ると、入れ替わりに3歳以下のクラスが園庭に。先生に見守られながらそり遊びです。
雪は美しいけれど、恐ろしくもあります。子どもたちが帰る頃には雪が止んでいれば良いのですが。
積雪で被害を受けている地方の皆様に心よりお見舞い申し上げます。