2023年1月8日日曜日

「イエス様の洗礼」(日曜日のお話の要約)

主の洗礼礼拝(白)(2023年1月8日)
詩編29編1-6節(859)マタイ福音書 3章13-43節(4)


 本日は「イエス様が洗礼を受けられた」お話です。4つの福音書はすべて洗礼者ヨハネが「自分はイエス様に洗礼を授ける資格はない」と口にしています。その上で、マタイ福音書はヨハネが面と向かってイエス様を止めようとします。

 マタイはイエス様に出会って召し出される前は税金を徴収することを仕事としていましたが、それは今の公務員のような役割ではなく、自分のやり方一つで人々から多めに税金をむしり取って私服を肥すことのできる仕事でした。
 当時イスラエルを支配していたローマ帝国のために、同じユダヤ民族から余分に取り立て、自分の財産とすることができました。ローマが後ろ盾となっていますから一般民衆は逆らえません。恨みを込めて人々は徴税人たちを神様に見捨てられた罪人と罵りました。一方、徴税人の側も、神様の民であることを自ら捨てさり、開き直って暗闇の中で生涯を送ったのです。


 しかしイエス様は収税所に座っているマタイに「わたしについてきなさい」と声をかけられます。イエス様と共にいた他の弟子たちは「イエス様が大変な人間をスカウトし始めた」と思ってヒヤヒヤしながら見守ったことでしょう。
 この頃のイエス様は、素晴らしいお話や癒しの奇跡でかなり有名になっておられたましたから、マタイもイエス様の噂を聞いたことはあったと思います。しかしまさかその方が自分に声をかけて来られるとは夢にも思っていなかったでしょう。聖書には「彼(マタイ)は立ち上がってイエス様に従った」と記していますので、マタイが躊躇なくイエス様に従ったことがわかります。


 マタイは徴税人になるまでは普通のユダヤの男子と同じように聖書を学んできたはずです。何かをきっかけに道を誤り、後悔しつつも後戻りはできないと思っていたでしょう。その道から今、イエス様は救い出してくださったのです。
 この方こそ罪人を救いに地上に来てくださったインマヌエル、救い主だ。そう確信したマタイは、イエス様の弟子となり、成長していきます。かなり高齢になって福音書を書こうと思い立った時、あえて自分の過去の過ちををはっきり記すことでイエス様の救いの素晴らしさを読み手に伝え、神様の御子であると証したのです。


 だからこそ、イエス様がヨハネから洗礼を受けた事実について、どう書き表そうかと悩んだでしょう。何しろ当時洗礼者ヨハネが行っていた洗礼とは「今から神様に忠実に生き直します」という宣言のようなもので、ユダヤの民なら皆そのことを知っていました。イエス様がまことに神の子であり、救い主であり、聖なる方ならば、洗礼を受ける必要など全くないはずなのです。


 もしマタイが自分の福音書に「イエス様も洗礼を受けた」と書いたなら、他の人は「イエス様も私たちと同じ罪のある人間だったのか」と思いはしないだろうか。イエス様が洗礼を受けた事実を知った人々が全く違う風に誤解することを、マタイは恐れたのです。そこで彼は、イエス様が洗礼を受ける際に、洗礼者ヨハネとどのようなやり取りがあったのか限り調べ、聞き取りをし、ここに記したのです。
 マタイが描きたかった最も重要なポイントは、洗礼者ヨハネが面と向かってイエス様が洗礼を受けることを思いとどまらさせようとした、ということです。これによってイエス様がヨハネの洗礼を受けて罪を清めることは全く不要である、ということを強調しました。


 マタイ福音書の3章10節から12節には、洗礼者ヨハネの思い描く神様の厳しい裁きが記されています。ヨハネは間も無く裁きの時が来る、神様を信じて悔い改めないなら、良い実を結ばない木のように切り倒され、火に投げ込まれるだろう、というのです。
 ヨハネは自分の力では一時的に信仰的な生活に導くくらいしかできないとわかっていました。神様が遣わしてくださる方の力によらなければ、どうすることもできない程、人々の心のうちは救い難いのだとわかっていたのです。ですから多くの人々を震え上がらせるかのように神様の裁きを語ったのでしょう。
 もし、悪人や役立たずを裁くことがイエス様の地上に来られた目的ならば、これは恐ろしいことです。世の中に心の底まで清い人などただの一人もいませんから、「この人もダメ」「この人も不合格」とばかり、人類全てが火に投げ込まれてしまうでしょう。しかし、ヨハネの前にイエス様が現れた時、彼はこの方が自分が考えていたのとは全く違うアプローチで、限りなく高くまた深い思いを持って人々を救いに導くであろうことを直感します。それが十字架に至る道であることはヨハネは知る由もありませんでしたが、神様がイエス様を通してなさろうとしている壮大な御計画を感じ取ることはできました。


 自分とこの方では全く格が違う。そう感じたからこそ、ヨハネはイエス様に洗礼を授けることをなんとか思いとどまらせようとします。しかしイエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とお答えになって、渋るヨハネからあえて洗礼を受けられたのです。 
 このヨハネとのやりとりを描くことで、マタイは「イエスにも罪がある」と誤解されないようにすると同時に、イエス様ご自身が、あえて罪人の中に入っていき、罪人たちの全ての罪を引き受け、その罪を担い、救いへと導くために、洗礼を受けてくださったことを伝えようとしました。


 マタイは、イエス様が人間の心の中にある、本人ではどうしようもない罪を焼き払ってくださるイメージをここに注ぎ込んだのではないでしょうか。そして自分も罪を焼き払っていただいた一人なのだ、と誇りを持って書き記したのでしょう。
 私たちもまた、自分をイエス様に委ね、心のうちにある不信仰の罪を焼き払っていただき、イエス様に導かれつつ新しい年を過ごして参りましょう。


昨日の土曜学校は
礼拝の後、毛糸のポンポンを使って
白うさぎを作りました
自分の作品を大事そうに抱えて記念撮影です


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