新年礼拝【降誕節第2主日礼拝】(白)(2023年1月1日)
ヘブライ人への手紙 2章16-18節 マタイ福音書 2章13-23節
私たちキリスト者は「聖書」に込められた神様の重要なメッセージに触れながら、それを人生をの道しるべとして歩んでいます。しかしだからこそ、「聖書」とは一読しただけで、すぐに神様が分かるものでもないことを知っています。
明治以降の日本のインテリで名だたる文豪、森鴎外も夏目漱石も聖書を読みましたが、なかなか理解できなかったようです。今に至っても信徒数は日本の全人口の1%を超えず、なかなか日本社会に根付いていきません。
日本人の多くは、意見をはっきり言って対立するよりは自分を抑えて共同体が穏やかであることを望みます。無理や無駄をせず、おだやかに暮らすことにも憧れを持っています。その上で、キリスト教の教えの中に自分たちの価値観と共通するところを見出して、うんうん、いい教えだ、なるほどマザー・テレサはさすがだな、などと納得するのです。
しかし、それでわかったような気になって、わざわざ毎週日曜日に教会に来て教えを受けなくてもどうってことはない、と思い込んでしまうのも事実なのです。それが私たちに聖書を与えてくださった神様をどれほど悲しませているか、想像もしないのです。
先ほど読みました「ヘブライ人への手紙」は「ヘブル書」とも略され、ヘブライ人、つまりユダヤ人のキリスト者に向けて記されています。それで、旧約の知識がないとちょっととっつきが悪いのですが、逆に言うとこの書を読むことで旧約聖書を理解する力が与えられるとも言えます。
旧約聖書にはご利益的なことは何も書かれていません。神様に愛され、選ばれ、召し出されたイスラエル民族が、その愛を信じることができず、政治や武力のみに頼って無益な戦争を繰り返し、神様を裏切り、悲しませるのです。
そのように、人間が何度も愚かな振る舞いをするたびに神様が正しい道へ導こうとされる様子が何百年、何世代にわたって記されています。旧約聖書というのは、極端に言うならばダメ人間を見放せない神の限りない愛が記されている書物だと言えるでしょう。
しかし神様は、その愛をさらに具体的にお示しになるタイミングを待っておられました。それが2000年前、ベツレヘムでお生まれになったイエス様の誕生です。この方の誕生は旧約聖書にしっかりと預言されており、この方が来られることは分かっていたのです。しかし、その時がいつなのか、どのように訪れるのかは誰にも分かりませんでした。ですから、イエス様の母マリアにしてもヨセフにしても、天使のお告げがあってようやく信じることができたのです。
一方、権力に執着している人々、例えばヘロデ王などは、天使のお告げを受けていません。突然他の国から学者がやってきて「新しい王様が生まれた」と告げられたのですから、不安になり、自分の地位が奪われるかもしれないと恐怖を抱いたのは当然でしょう。
ヘロデ王はユダヤ教の祭司や学者を集め、救い主に関する預言を調べさせます。おおよその場所と時間がわかると、学者たちにそこへ向かわせます。しかしこれは親切心からではありません。何も知らない学者たちをスパイに使ったのです。その上で、もし赤ん坊が特定できなければそれらしい子供たちを皆殺しにする計画を立て実行に移すのです。神様の御子が生まれた喜びの知らせのすぐ後に、無関係の幼児たちの命を奪うという恐ろしい罪も地位に執着する人間の愚かさなのです。
そのような状況の中で、イエス様の家族は、エジプトへ難民となって逃げていくのです。ヨセフは、マリアの思いがけない妊娠を知った時と同じように天使から夢のお告げを受け、躊躇せずその夜のうちに支度を整え出発します。ヨセフにとって、マリアとの結婚は苦難の連続となりましたが、その事態を受け止め、最初に決めた通りイエス様とマリアを守って自らを犠牲にして行動するのです。危険の迫る中、ヨセフは神様の救いを闇の中に輝く道標として、さらに深く理解したのではないでしょうか。
私たちはこの1年、マタイによる福音書から神様の御言葉を聞いてまいります。マタイ福音書の特徴は「旧約聖書に記された神様の約束はどのように実現されたか」を事細かに記してあることです。これを「預言の成就」と言います。
一番大切なことは、マタイは私たちの根本的な疑問に神様の視点から答えているということです。イエス様は神の子であり、救い主なのに、どうして受難にあい、苦しい人生を歩み、十字架という非業の死を遂げたのかという問いかけに対し、神様がそうお定になったから、と答えています。神様は一人子であるイエス様にその苦難を負わせることで、あなたの背負っている苦難は、私も共に背負っていることを忘れないで欲しいというメッセージを伝えようとされたのです。
教会では、神様からのそのメッセージを常に心に刻むために十字架が掲げられています。あの十字架はキリストが私の為に十字架に掛かってくださり、苦しみを背負われたことを思い出すためにあるのです。
今年がどのような年になるのか私たちにはまだわかりません。ただ私たちの周りは聖書もキリストも抜きで、話が進んで行くことが多いのです。そのような中で、私たちはどのような時もイエス様の証し人としての判断や発言が求められていることを忘れないでいましょう。私たちはイエス・キリストに召され招かれた者であり、苦難は祝福の源であることを信じる人々の集まりです。不安な時代にあっても、信仰をよりどころとして歩んで参りましょう。神様に愛されている私たちには必ず祝福があることを信じ、この1年もキリストと共に歩んで参りましょう。
礼拝後、クリスマス礼拝記念写真 リーベクワイヤの皆さんも、こども聖歌隊メンバーも いい笑顔です 今年も音楽のあふれる教会になりますよう よろしくお願いいたします |
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