顕現後第6主日礼拝(緑)(2023年2月12日)
コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章9節(302)
マタイによる福音書5章21-26節(7)
マタイによる福音書5章21節、この段落には「腹を立ててはならない」と小見出しがつけられています。「腹を立ててはならない」とはっきり記しているのはマタイ福音書だけです。信仰によって結ばれている仲間(兄弟姉妹)に腹を立ててはいけない、早く和解しなさい、と教えるのです。しかし「腹を立ててはいけない」はあまりにもハードルが高い教えだと思われるでしょう。
先日から、マタイ福音書はユダヤ人クリスチャンを読者に想定して書かれた、というお話をしてきました。マタイ福音書だけに書かれている「腹を立ててはいけない」という教えはどうやらその辺りに関係しているようです。
世界史でも習うことですが、イスラエルという国はかつて紀元70年に神殿もろともローマ帝国によって滅ぼされ、生き残ったユダヤ人たちはエルサレムを離れ、周辺の土地や国に散らばって行きました。基本的に勤勉で頭の良い彼らは芸術や金融業で成功する人も多くいました。しかし、クリスチャンとなったユダヤ人以外は、どこにいてもユダヤ教を捨てず独特のコミュニティを維持し続けました。ヨーロッパではそれがしばしば偏見や迫害につながったようです。第二次世界大戦の折にはヒットラーの主導でユダヤ人大迫害が起こったのは有名な出来事です。
戦後は二度とこの悲劇を繰り返さないためにも、イギリスなどの後押しによって2000年近く前にイスラエルのあった場所に再びイスラエルが建国され、世界各地からかつてのユダヤ人の子孫たちが続々と帰還しました。しかしその土地にはすでにパレスチナの人々が住んでいましたからしばしば紛争が起こり、今でもことあるごとに揉め続けています。
それでも彼らはこの場所こそ、神様が先祖に与えてくださった土地である、と固く信じています。そこにはかつてのエルサレム神殿の外壁がわずかながら残されており、熱心なユダヤ教徒たちはそこで今も神に祈りを捧げています。
少し話がそれましたが、かつてのイスラエルはユダヤ教が国の中心で、神への礼拝を欠かさない国民でしたから、今もその伝統は一部のユダヤ教徒にはしっかり受け継がれているのです。
2000年前、ユダヤ教からキリスト教に変わったクリスチャン達は、今まで自分たちが信じてきた神様は、十字架にかけられて死んだイエス様だったのだ、と信じました。しかしイエス様と敵対していたファリサイ派やサドカイ派の人々は、その教えを異端であると決めつけ、厳しい迫害を行います。ユダヤ人クリスチャンの信仰生活は危険と隣り合わせで、内部で争っている場合ではありませんでした。
しかし、肩を寄せ合うようにして同じ信仰を守っていても、単純に「気が合わない」ことはあります。生まれや育ち、ものの考え方、能力の差なども当然あります。自分にとって安心できる祈りの群れの中に、自分をイラださせたり腹を立たせるような存在があらわれた場合は強いストレスを感じます。それが高じてついつい感情的になり、ついにはどうしても一緒にやれないところまで関係がこじれてしまうこともあったようです。これはキリストの教会にとって頭の痛い問題でした。
マタイはイエス様の直接の弟子としてイエス様と伝道の旅をしましたが、弟子たちは時々諍いを起こす様子を見ていました。そんな時、イエス様は旧約聖書から引用して自分たちを諌めたのをマタイは思い出したのでしょう。そこで、自分の福音書を記録するとき、イエス様がお話しされたことを強調しつつ、十戒から「殺してはならない」を引用し、「殺すな、人を殺した者は裁きを受ける」と記しました。心の中で腹を立て相手の存在を否定することは、相手を殺すことと同じで、あなたは裁きを受けますよ、という教えを書き記したのです。
ただし、ここに記されている「殺すな」とは、「無差別殺人者になるな」という意味です。そして、腹を立てる人というのは、ここでは瞬間湯沸かし器みたいに「こうでないとダメだ!」ということしか言えない人です。自分の感情を抑えられず、誰かの意見を瞬時に否定したり、理解しようともしないという態度です。これはイエス様を信じる者として相応しい態度とはいえない、と指摘しているのです。
ここでの「愚か」という言葉は、「狭い了見を持ってはいけない」という指摘です。自分の知っている世界が全てであって、自分の考えこそ神様の御心であるかのように錯覚し、他の人を愚かと決めつけ攻撃してしまう。それは最も避けなければならない、と教えておられるのです。
イエス様はその解決策をユダヤ人たちに分かりやすいように「エルサレム神殿で捧げものをする時」と例えました。私たちの礼拝する神は自分の欲望を満たしてくれと願うために存在する神ではなく、この世界が平和になるよう、その神のみ心を実現するために、私はどうすれば良いのか、たずね求める方である。その為に、あなたたちは召されているのだから、表面だけ整えて腹の中では誰かをこき下ろしたりするような状態で礼拝に行ってくれるな、イエス様はそうおっしゃったのです。
私たちは共に神様の平和の御心を実現するために召された者の集まりです。過去、教会が栄えた時代の方法論を振りかざすことなく、今、神の栄光を示すために、あえてさまざまな考え方や能力を持ったものが集められています。
くどいようですが、自分が考える正しさを押し通すのではなく、神の愛を宣教する為に、あの人の行動にはそうした意味があったのか、と互いに理解する努力をして参りましょう。その実現ためにイエス様は十字架に掛かられたのです。
イエス様の恵みを誰かに伝えたいと思う心が全てのエネルギーになります。私たちは小さな群れですが、祈りつつ、考えつつ、変化をおそれず伝道の業に取り組んで参りましょう。時には失敗することもあるかも知れませんが、互いに失望せず腹をたてず、イエス様の贖いを覚えて、共に歩んで参りましょう。
金曜日は予報通りの大雪でした 朝7時過ぎから積もり始め 夕方、園の先生たちが仕事を終えて帰る頃には かなりの積雪で県道はノロノロ運転、大渋滞だったようです 昨日が良い天気だったのでかなり解けましたが 日当たりの悪いところは除けた雪が山盛りのまま 日向はぬかるみでグチャグチャです 元の姿に戻るにはまだ何日もかかりそうです 写真は金曜日の雪かきの合間に撮影した 教会&幼稚園の駐車場です |
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