2020年1月20日月曜日

神の小羊(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝 (2020年1月19日)
イザヤ49:1-7    Ⅰコリント1:1-9 ヨハネ福音書 1:29-42

 マタイ福音書では、いきなり現れたイエス様に洗礼者ヨハネが戸惑う様子が記録されていましたが、本日の福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを、新しい時代の幕開けと捉え、神様がいよいよ人間と新しい関係を築こうとしてくださることが描かれています。
 そのキーワードがイエス様の代名詞でもある「神の小羊」です。
イスラエルの羊料理の中でも小羊というのは、柔らかくて美味とされ、かなりの御馳走になります。そこから「特別なもの」「尊いもの」を指す言葉として使われるようになりました。

 聖書の中から小羊という言葉の出てくる箇所を3箇所あげてみたいと思います。
 まず第一は、有名な「苦難の僕」とも言われる、旧約聖書の預言の書、イザヤ書53章の言葉です。ここには、イエス様が私達の罪を背負うため、私がかかるべき十字架にイエス様は身代わりになってかかってくださったことが書かれています。その昔、神様に自分の罪を赦していただくために生贄として毎年小羊を捧げていました。しかしイエス様が犠牲の子羊になってくださったので、私は赦され、生きている、という内容です。

 二つ目は、過ぎ越しの小羊としてのイエス様のことです。出エジプト記において、小羊の血を鴨居に塗っておけば、その家族で一番最初に生まれた子どもの命を奪わないという約束がありました。その出来事を忘れないために、小羊の血に意味を持たせました。

 三つ目が、世の中の終わりに現れて、世の悪を裁く「終末的な小羊」です。ヨハネの黙示録では、暴力的な国が世界を支配し、小さな国が脅かされる時、小羊があらわれ、新しい世界を用意してくださる。そのように記されています。

 洗礼者ヨハネはイエス様の中にこういった「子羊」のイメージを全て見たのでしょう。神様の救いの計画がいよいよ始まっていくのだと感じ取り、イエス様のことを「神の小羊」と指し示したのです。
 神様のご計画は、洗礼者ヨハネの想像をはるかに超えるものでしたが、イエス様に神の霊が降るのを見て、イエス様が何者であるかをはっきりと知ります。ヨハネは、イエス様は「神の小羊、神の子」であると信仰告白するのです。

 そこで洗礼者ヨハネは自分の弟子をイエス様に託そうとします。そのうちの一人がペトロの弟でのちの12弟子の一人のアンデレであった、と記されています。
 ヨハネ福音書によれば、ペトロもイエス様と会う以前に洗礼者ヨハネから洗礼を受けています。洗礼者ヨハネは、自分の弟子だったアンデレを通して、ペトロをイエス様に引き合わせるのです。あなたたちが、これから従っていくのは、私ではなく、このイエス様だと、語っているのです。こうして洗礼者ヨハネは、その中心的な働きを終えていきます。

 これから間も無く、洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられ、死刑になります。ヘロデの義理の娘が踊りを踊り、その褒美にヨハネに首を所望する、というものです。このな
ヨハネの最期はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されており、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」として演じられていますので、ご存知の方も多いかもしれません。

 ヨハネ福音書には「サロメ」的な記述はありませんが、本格的に活動を始めたイエス様を見たヨハネの弟子たちが「みんなあの人の元に行ってしまう」と焦ったように報告しています。それに対してヨハネは「あの人はメシアなのだからそれが当然で、自分はあの方の先ぶれとして登場したに過ぎない」と答えます。「あの方が栄え、私は衰えるが、喜びに満たされている」とも語るのです。

 洗礼者ヨハネは神の国が近づくと宣言し、民衆の心を神様に向けさせ、準備を行いました。そしてイエス様と出会って自分の引き際を悟ると、自分の弟子をイエス様に結びつけ、役割を終えます。その引き際は見事としか言いようがありません。
 ヨハネとイエス様はまさに一つのチームとなって、人々を、そして我々を神様のもとに導いてくださったのです。



牧師館の物干し台からは毎日表情を変える山々が望めます
赤石山脈だとも言われましたが
実は私は地理がまだよくわかっていません(^^;)

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